武田耕雲斎という名前を、水戸藩の人物として記憶している方は多いはずです。ところがこの人物が率いた約800人の集団が、元治元年(1864年)の晩秋から初冬にかけて、岐阜県内を9日間かけて歩き抜けたことはあまり知られていません。中津川宿で五平餅をふるまわれ、鵜沼を通り、揖斐で進路を北に変え、標高978mの雪の峠を越えて越前へ消えていった――その足跡は、今も岐阜の中山道や根尾の谷にそのまま残っています。
結論から言えば、武田耕雲斎をたどる旅は「岐阜県を東西に横断する歴史ドライブ」として成立します。中津川市から各務原市、美濃加茂市、揖斐川町、本巣市へ。中山道の宿場町と、奥美濃の谷あいの集落を一本の線でつなぐルートです。しかも通り道にある資料館の多くは入館無料か数百円で、思い立った週末にそのまま走り出せます。
この記事では、武田耕雲斎という人物の輪郭から、天狗党が岐阜で何をして何を決断したのか、そして今その現場をどう訪ねればいいのかまでを、地元案内人の目線で一本の道筋にまとめました。歴史が好きな方はもちろん、「中山道を歩いてみたいけれどテーマが決まらない」という方にも、そのまま使える旅の骨組みになるはずです。
・武田耕雲斎とはどんな人物で、なぜ天狗党の首領になったのか
・天狗党が岐阜県内を通った日付と地名(11月26日〜12月4日)
・中津川・鵜沼・揖斐・根尾でたどれる資料館とスポットの料金・営業時間
・蝿帽子峠へ近づくときの通行止めリスクと、無理のない代替プラン
武田耕雲斎とはどんな人物か|水戸藩の重臣が「天狗党」の首領になるまで

藩主・徳川斉昭を支え続けた、水戸藩改革派の筆頭格
武田耕雲斎は享和3年(1803年)に生まれ、元治2年2月4日(1865年3月1日)に没した水戸藩士です。本名は正生(まさなり)、通称は彦九郎。天保11年(1840年)に参政、安政3年(1856年)には執政に任じられており、藩政の中枢を長く歩いた人物でした。つまり彼は反乱者としてキャリアを始めたのではなく、藩主・徳川斉昭を擁立して藩政改革を進めた「体制側の重臣」だったのです。
この経歴が、後の展開を読み解く鍵になります。60歳を超えた執政経験者が、若い攘夷派の集団の先頭に立つ――これは通常の反乱の構図ではありません。旅の道すがら「なぜこの人が担がれたのか」を頭の片隅に置いておくと、中津川や揖斐で残された記録の意味が違って見えてきます。
訪ねるなら、まず人物像から入るのが向いています。中津川市の中山道歴史資料館は入館料320円(中学生以下無料)と手頃で、幕末の中山道を人がどう行き交ったかを実物資料で追える場所です。歴史ドライブの起点として、朝いちばんに立ち寄る使い方が合います。
注意したいのは、武田耕雲斎について「岐阜県内に専用の展示コーナーがある」と期待しすぎないことです。県内の資料館は宿場や地域の歴史が主題で、天狗党は幕末のトピックの一つとして扱われます。人物そのものを深掘りしたいなら、後述する敦賀市の国史跡まで足を延ばすのが正解です。
「跡部」から「武田」へ|姓を戻した男が背負ったもの
武田耕雲斎の家はもともと跡部氏で、清和源氏河内源氏の傍系にあたります。藩主・斉昭の許しを得て武田姓に復姓した経緯があり、これは単なる改名ではなく、家の由緒を公に認められたという意味を持ちました。水戸藩内で彼が置かれていた位置の高さが、この一点からも読み取れます。
復姓の重みは、天狗党が西上した際の求心力にもつながります。名の通った重臣が先頭にいるという事実そのものが、道中の宿場に「これは単なる暴徒ではない」という印象を与えました。中津川宿で天狗党が丁重に迎えられた背景には、この看板の力が確実に働いています。
一人旅で史跡をめぐる方には、この「名前の重み」という視点が旅の芯になります。石碑や案内板の前で、なぜこの集団が通行を許されたのかを考えると、単なるスタンプラリーではない時間になるはずです。
ただし、家系や由緒の話は現地の案内板にはほとんど書かれていません。事前に人物の背景を頭に入れてから現地に立つか、資料館の展示解説を先に読むかしないと、石碑を見ても情報量がゼロのまま終わります。予習が効くタイプの史跡めぐりだと割り切ってください。
藤田小四郎の熱望に押されて、望まぬ首領の座へ
天狗党は元治元年(1864年)、藤田小四郎らが筑波山で挙兵したことから始まりました。武田耕雲斎はこの挙兵の当事者ではありません。記録によれば、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となったとされています。挙兵から半年ほど経った10月に筑波勢と合流し、集団を再編して西上軍の頭に立ちました。
「望んで先頭に立ったわけではない」という一点が、この物語の温度を決めています。京都にいる一橋慶喜に尊王攘夷の志を訴えるという目的は掲げていたものの、そこへ向かう1,000km近い行軍は、はじめから追い詰められた道でした。岐阜で彼らが見せた判断の慎重さも、この事情を知っていると腑に落ちます。
カップルや夫婦でこのテーマをたどるなら、中山道の宿場歩きとセットにするのが無理のない組み立てです。歴史の重い話ばかりでは疲れるので、馬籠宿の坂道や太田宿の町並みといった「歩いて気持ちのいい場所」を軸に、その合間に天狗党の話を差し込むくらいが心地よく収まります。
逆に、この時代の政治対立を細かく追おうとすると、水戸藩内の諸生党との抗争まで入り込むことになり、半日では到底終わりません。1日で回るなら、人物の背景は「改革派の重臣が担がれた」という一行で押さえ、現地では行軍ルートの追体験に絞るのが現実的です。
📜 歴史メモ
天狗党という呼び名は、水戸藩内の対立から生まれた通称です。藩政改革を推す急進的な攘夷派を、保守派(諸生党)側が「天狗のように高慢」と揶揄したことに由来するとされます。彼ら自身が名乗ったブランドではなく、対立相手からのレッテルが定着した呼称という点は、案内板を読むうえで覚えておくと理解が早くなります。
800人はなぜ岐阜を通ったのか|京都を目指した西上ルートの全体像
筑波山から大子村へ|1,000人が集まった出発点
天狗党の西上は、水戸藩領北部の大子村に千人余りが集結したところから本格的に始まります。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とする体制が組まれました。最終的に中山道を進んだ人数は約800名。単純な武装集団ではなく、隊列を組んで街道を行く「軍」の規模です。
800人が動くということは、宿場ごとに膨大な食糧と宿泊場所が必要になるということでもあります。岐阜県内の宿場に残る記録が食べ物の話ばかりなのは偶然ではなく、受け入れ側にとって最大の問題がそこだったからです。この視点を持って現地の解説を読むと、宿場の生活がぐっと立体的に見えてきます。
家族連れで訪ねるなら、この「800人が泊まる大変さ」は子どもにも伝わりやすい切り口です。太田宿中山道会館のように入館無料で宿場の仕組みを展示している施設を使えば、教科書より具体的な話ができます。
一方で、人数や日付は資料によって幅があります。集結時の「千人余り」と行軍時の「約800名」は別の場面の数字なので、混同すると話が合わなくなります。現地で誰かに説明するときは、どの時点の数字かをセットで言うのが安全です。
下仁田と和田峠|岐阜に入る前に彼らが背負っていた血
岐阜に入るまでに、天狗党は二度の大きな戦闘を経ています。11月16日の下仁田戦争では、激戦の末に天狗党の死者4人に対し高崎藩兵は死者36人を出して敗走しました。続く11月20日の和田峠の戦いでは、信州・諏訪湖近くで高島藩・松本藩の兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出しながら天狗党が勝ちきっています。
つまり岐阜に入ってきた彼らは、「二度勝った集団」でした。この事実は、美濃の諸藩が正面からぶつかろうとしなかった理由を説明します。彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を始めたのは、撃退よりも「通さない」ことを優先した判断だったと読めます。
ドライブ旅でこのルートをたどる方には、中津川から鵜沼までの中山道沿いを走りながら「ここが封鎖線だった」と意識するだけで、見える景色が変わります。国道19号と21号がおおむね旧街道に沿っているので、車移動でも行軍の距離感がつかめます。
注意点として、和田峠や下仁田は長野・群馬であり、岐阜県内には天狗党の戦闘跡はありません。「合戦地を見に行く」つもりで来ると空振りします。岐阜で見るべきは戦場ではなく、通過と決断の痕跡だと最初に切り替えておいてください。
清内路峠を越えて美濃へ|11月26日、馬籠と落合に分宿する
天狗党は伊那谷から清内路峠を越えて中山道に合流し、馬籠・落合に分宿して一泊しました。ここが岐阜県入りの瞬間です。馬籠宿は現在の中津川市馬籠にあたり、石畳の坂道が続く人気の宿場町。天狗党の一団が坂の上下に分かれて泊まった夜を思い浮かべながら歩くと、観光地の顔の裏側が見えてきます。
| 住所 | 〒508-0502 岐阜県中津川市馬籠4300-1 |
| 電話番号 | 0573-69-2336 |
| 通行規制 | 宿場内(上入口〜下入口)は全日10:00〜16:00が車両通行止め |
| 駐車場 | 一部を除き普通車・大型とも無料 |
| 公式サイト | 中津川観光協会 |
馬籠宿は駐車場が一部を除いて無料なのが助かるところです。ただし宿場内は全日10:00〜16:00が車両通行止めなので、「宿場のすぐ前に車をつけて短時間だけ見る」という回り方はできません。上入口側・下入口側それぞれに駐車場があるので、坂を登るか下るかを先に決めてから停める場所を選んでください。
写真を撮りたい方は、規制時間の前後が狙い目です。朝9時台なら人も少なく、石畳が朝日で光ります。逆に紅葉期の日中は坂道が人で埋まり、天狗党どころではない賑わいになります。
この馬籠から先が、いよいよ岐阜県内の行軍ルート本番です。中山道の宿場を西へ西へと進み、やがて彼らは街道を捨てて山に入っていくことになります。

「岐阜の宿場町を歩いてみたいけれど、数が多くてどこへ行けばいいのか分からない」——そんな声をよく耳にします。江戸と京都を結んだ中山道は、岐阜県内(旧美濃・木曽)…
実は、天狗党が岐阜県内で戦闘を起こした記録はほとんど残っていません。二度の合戦を勝ち抜いてきた集団が、美濃では一度も刃を交えず通り抜けている――意外と知られていないこの事実こそ、岐阜における天狗党の物語の核心です。街道を封鎖した諸藩も、宿場の人々も、彼らを「戦う相手」ではなく「早く通り過ぎてほしい客」として扱いました。その微妙な緊張感が、中津川宿に残る食べ物の記録に凝縮されています。
中津川宿は五平餅で迎えた|元治元年11月27日、宿場が下した判断

昼の休憩に出されたのは、温かい五平餅ときしめんだった
1864年11月27日、天狗党の一行は中津川宿に到着し、ここで昼食と休憩をとりました。中津川市が公開している記録によれば、宿場の人々は温かい五平餅やきしめん、酒や茶を提供し、さらに藁で巻いて作った納豆まで持たせています。追われる集団に対する扱いとしては、明らかに手厚いものでした。
市岡家の風説留『筑波颪』には、四つ目川沿いの茶屋三軒に飯を炊かせて護兵餅をつくり、納豆をつくって天狗勢に持たせたと書かれています。単発の炊き出しではなく、宿場ぐるみで携行食を用意したということです。800人分の食糧を数時間で整えるという、宿場の総力戦だったことが数字から伝わってきます。
歴史好きの一人旅なら、この記録を読んでから中津川宿の町並みを歩くのが圧倒的に面白い順序です。四つ目川は今も市街を流れており、川沿いに立てば「ここで三軒の茶屋が飯を炊いた」という具体的な絵が浮かびます。
ただし、五平餅の提供を「歓迎」と単純に読むのは危うい面もあります。断れば何が起きるか分からない集団に対し、穏便に通ってもらうための必要経費という側面も否定できません。史料の温度をどう読むかは、現地で自分なりに考えてみてください。
戦死者の首を埋葬した宿場|副将から贈られた鎧袖
中津川宿がしたことは炊き出しだけではありませんでした。戦死した横田元綱の首を埋葬するという、当時としては相当な覚悟を要する支援まで行っています。その返礼として、副将の田丸稲之右衛門から鎧袖を下賜されたことが記録に残っています。
幕府の追討対象になっている集団の戦死者を弔うのは、宿場側にとって明確なリスク行為です。にもかかわらずそれを行い、しかも品を受け取って記録に残した。ここに、中山道の宿場町が幕末という時代をどう生き抜いたかという生々しさがあります。
この話は、カップルや友人同士で訪ねたときに一番反応が返ってくるエピソードでもあります。「なぜ助けたのか」を歩きながら話し合うだけで、宿場の坂道が急に濃い場所に変わります。
注意点として、横田元綱の埋葬地を訪ねようとしても、観光地として整備された場所ではありません。目的地として設定するのではなく、資料館の展示や解説の中で出会うテーマとして受け止めるのが現実的です。
寄せ書き掛軸に残された7人の名前
中津川に残る寄せ書き掛軸には、休憩した7名の名前が記録されています。須藤敬之進、根本新平、高野長五郎、桑屋元三郎、黒沢利八郎、大津雄太郎、樫村平太郎。800人の中のわずか7人ですが、この7つの名前があることで、天狗党は「歴史用語」から「実在した人の集まり」に変わります。
こうした古文書は、中津川宿の旧家から発見されたものです。中山道歴史資料館では、天狗党の往来のようすを示す古文書をはじめ、幕末を駆け抜けた人々に関する資料を継続的に収集・保存し、公開しています。武田耕雲斎をテーマに岐阜を旅するなら、最初に押さえるべき施設です。
| 住所 | 〒508-0041 岐阜県中津川市本町二丁目2-21 |
| 電話番号 | 0573-66-6888 |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月27日〜1月5日) |
| 入館料 | 大人320円/中学生以下無料 |
| 公式サイト | 中津川市中山道歴史資料館 |
この資料館は中津川宿の脇本陣跡地に2004年4月10日に開館しました。入館料320円で中学生以下は無料なので、家族で立ち寄っても負担になりません。所要時間は40分ほどを見ておけば、展示をひととおり追えます。
気をつけたいのは入館締切です。開館は17:00までですが入館は16:30まで。中津川を1日の最後に組み込むと、間に合わずに終わるパターンが起きます。天狗党ルートを東から西へたどるなら、ここは朝の最初に入れてください。
中山道沿いの資料館は「月曜休館」がほぼ共通です。さらに厄介なのが「祝日の翌日も休み」というルールで、これは中山道歴史資料館・鵜沼宿町屋館・揖斐川歴史民俗資料館すべてに設定されています。三連休の最終日翌日に走り出すと、ルート上の資料館が全滅ということが実際に起こります。出発前に「行く日は月曜か、祝日の翌日か」の2点だけは必ず確認してください。
街道を西へ|大井・御嵩・鵜沼、天狗党が抜けた中山道の宿場をたどる
大井宿|中山道でもっとも枡形が残る宿場を歩く
中津川を出た天狗党は、記録上「馬籠→大井→御嵩→鵜沼」と中山道を西進しています。大井宿は現在の恵那市にあたり、中山道の中でも道を直角に折る枡形が数多く残る宿場として知られています。行軍する集団にとっては見通しの悪い難所、宿場にとっては防御装置。歩いてみると、その意図が体で理解できます。
大井宿を訪ねる利点は、車のアクセスがよく駐車もしやすいことです。中津川からは国道19号で20分ほど。中山道歴史資料館を朝に見てから大井宿に回るという流れが、無理なく組めます。
枡形をたどる街歩きは、家族連れにも向いています。「なぜここで道が曲がっているのか」というクイズにすると、子どもが自分で答えを見つけられる構造になっているからです。所要は1時間ほどで、駅前から徒歩圏に収まります。
ただし宿場の建物内部を見学できる施設は限られており、外観と道筋を味わう散策が中心になります。展示を期待して行くと物足りなく感じるので、「歩く場所」と位置づけて訪ねてください。

中山道歩きの本を眺めていて「大井宿本陣跡(おおいじゅくほんじんあと)」という文字に目がとまり、いったい何が残っているのだろうと気になって検索した——そんな方は多…
太田宿|「木曽のかけはし、太田の渡し」と呼ばれた木曽川の難所
御嵩と鵜沼の間の中山道にあたるのが、現在の美濃加茂市にある太田宿です。木曽川の渡しを控えた宿場で、中山道三大難所の一つに数えられてきました。800人が川を渡る手前で、どれだけの緊張があったか。地形を見ればおのずと想像がつきます。
| 住所 | 〒505-0042 岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-31 |
| 電話番号 | 0574-23-2200 |
| 開館時間 | 9:00〜17:00 |
| 休館日 | 月曜日(祝祭日は開館し翌日休館)、12月29日〜1月3日 |
| 入館料 | 無料(多目的ルーム・イベント広場の利用は有料) |
| 公式サイト | 美濃加茂市公式サイト |
太田宿中山道会館は入館無料で、東海環状自動車道の美濃加茂ICから国道41号を南に約5分。ICからの近さは、このルートで随一です。時間が押しているときの「削らずに済む立ち寄り先」として重宝します。
ドライブ旅の休憩地としても優秀で、宿場の町並みと会館がセットになっているため、30分でも1時間でも過ごし方を調整できます。無料施設なので、少しだけ寄って次へ向かうという使い方に罪悪感がありません。
注意点は月曜休館ですが、太田宿だけは「祝祭日は開館し翌日休館」というルール。祝日そのものは開いているので、連休の中日に組み込むなら使えます。
鵜沼宿|11月29日、封鎖線が敷かれた街道の要衝
行程表によれば、天狗党は11月29日に鵜沼へ達しています。現在の各務原市。ここは中山道が木曽川沿いから濃尾平野に出る境目で、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道封鎖を進めていたエリアでもあります。西へまっすぐ進めば京都、しかし前方は塞がれつつある――その板挟みが、この地点で最大化していました。
| 住所 | 岐阜県各務原市鵜沼西町1丁目116番地3 |
| 電話番号 | 058-379-5055 |
| 開館時間 | 9:00〜17:00 |
| 休館日 | 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日、12月28日〜1月4日 |
| 入館料 | 無料 |
| 公式サイト | 各務原市公式ウェブサイト |
鵜沼宿町屋館は入館無料で、名鉄各務原線の鵜沼宿駅から徒歩15分、JR高山本線の鵜沼駅からは徒歩20分。電車でアクセスできる数少ない天狗党ルート上のスポットです。車を使わない旅程を組みたい方には、ここが貴重な拠点になります。
実際に一度、祝日の翌日にここを目的地にして車を走らせ、扉が閉まっているのを見て引き返したことがあります。原因は「月曜以外にも休館日がある」ことを見落としていた点。対策はシンプルで、各務原市の公式ページで休館日を直接確認してから出発することです。無料施設ほど下調べが雑になりがちなので、意識して確認する価値があります。
鵜沼から先、天狗党は11月30日に天王、そして12月1日に揖斐へと進みます。ここから彼らは中山道を外れ、濃尾平野の北の縁を西へ、そして北へと向かうことになります。
揖斐宿で運命が変わった|12月1日、京都行きを捨てた決断の地
琵琶湖畔は通れない|西へ進む道が消えた日
12月1日、天狗党は揖斐に到達します。ここで彼らが下したのが、この物語で最大の決断でした。警備の厳重な琵琶湖畔を通って京都に至ることは不可能と判断し、さらに北上して蝿帽子峠を越え、越前へ入るルートに切り替えたのです。京都まで直線距離で100kmを切っていた地点で、あえて雪の山へ向かう選択をしました。
地図で見ると、この判断の重さが分かります。揖斐から関ヶ原を抜けて近江に入れば、京都は目と鼻の先。しかしそこには彦根藩の本拠地があり、幕府方の兵が待ち構えていました。正面突破を避けた結果が、越前への大迂回だったのです。
揖斐川町を訪ねるなら、まずこの「地理的な追い詰められ方」を体感するのが面白い入り方です。町の西には伊吹山地、北には奥美濃の山々。平野が尽きる場所に立つと、なぜ北しか残っていなかったのかが目で分かります。
注意点として、揖斐川町には「天狗党決断の地」という観光看板が立っているわけではありません。ここは資料館の展示と地形から読み取る場所です。分かりやすい史跡を求めて行くと肩透かしになるので、地形を読む旅として構えてください。
揖斐宿の総鎮守・三輪神社で、町の成り立ちを知る
揖斐宿の総鎮守が三輪神社です。御祭神は大物主大神で、美濃国のダイコク様として親しまれてきました。天狗党が到達した12月1日、この町は宿場としてすでに機能しており、800人を迎える側の緊張はここでも相当なものだったはずです。
| 住所 | 〒501-0619 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪1322番地 |
| 電話番号 | 0585-22-1511 |
| 社務所受付 | 10:00〜16:00 |
| 休務日 | 水曜日(社務所) |
| 御祭神 | 大物主大神 |
| 公式サイト | 三輪神社 |
参拝そのものは無料で時間の制約もありませんが、御朱印を目的にするなら社務所の受付10:00〜16:00に合わせる必要があります。直書きはこの時間内のみ、水曜は社務所が休務です。月ごと・季節ごとの限定御朱印を頒布しており、郵送は行っていません。
カップルや友人との旅なら、御朱印の受付時間を軸に1日の順番を組むとうまく回ります。午前に中津川、午後に揖斐という東西移動だと16時に間に合わないことが多いので、揖斐を先に回して東へ向かう逆走ルートも検討してください。
境内は静かで、観光客で混み合う場所ではありません。落ち着いて町の歴史を感じたい方には向きますが、賑わいや土産物を期待すると物足りなく映ります。参拝と町歩きをセットにするのがちょうどいい距離感です。
揖斐川歴史民俗資料館|110円で揖斐の暮らしと街道を読む
揖斐エリアで史料に触れるなら、揖斐川歴史民俗資料館が拠点です。入館料は高校生以上110円、小中学生20円、未就学児無料。20人以上の団体なら高校生以上50円になります。ワンコインどころか小銭で入れる価格帯で、これは県内の資料館でもかなり安い部類に入ります。
| 住所 | 〒501-0603 岐阜県揖斐郡揖斐川町上南方901番地5 |
| 電話番号 | 0585-22-5373 |
| 開館時間 | 9:00〜17:00 |
| 休館日 | 月曜日、祝日の翌日、12月29日〜1月3日、資料整理・展示替え期間 |
| 入館料 | 高校生以上110円/小中学生20円/未就学児無料 |
| 公式サイト | 揖斐川町公式ホームページ |
展示の中心は縄文から古墳時代の出土品、揖斐川の舟運資料、地域の祭りの山車模型、民俗資料など。屋外には江戸時代末期の茅葺民家が移築されています。天狗党が通ったのはまさにその「江戸時代末期」で、同じ時代の民家が目の前にあるという体験は、文字資料より雄弁です。
1972年に郷土資料館として開館し、1987年に現在地へ移転・改称しました。家族連れなら山車模型と昭和の商店再現展示が刺さります。子どもが飽きにくい構成なので、歴史テーマの旅程に組み込みやすい施設です。
注意したいのは「資料整理・展示替え期間」という不定期の休館があること。月曜と祝日翌日を避けても閉まっている可能性が残るので、遠方から向かうなら電話(0585-22-5373)で確認するのが確実です。
谷汲を抜けて北へ|満願霊場のそばを通った12月2日
揖斐から北上した天狗党は、谷汲の集落を経て根尾川沿いを進みます。この谷汲にあるのが、西国三十三所の第33番・満願霊場である谷汲山華厳寺です。798年(延暦17年)開創の天台宗寺院で、巡礼を締めくくる寺として全国から参拝者が訪れます。
| 住所 | 〒501-1311 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23番地 |
| 電話番号 | 0585-55-2020(揖斐川町観光プラザ) |
| 拝観時間 | 8:00〜17:00 |
| 拝観料 | 無料 |
| 駐車場 | 普通・軽自動車500円、中型バス1,000円、大型バス1,500円、二輪無料(日曜・祝日および特定期間) |
| 公式サイト | 揖斐川町公式ホームページ |
拝観料は無料で、駐車場が日曜・祝日および特定期間に有料になる方式です。平日に訪ねれば駐車の負担もなく、参道の門前町を含めて2時間ほどゆったり過ごせます。車なら東海環状自動車道の大野神戸ICから約30分、本巣ICから約20分です。
天狗党の一団が満願霊場のすぐそばを、京都に着けないまま北へ向かって通り過ぎていった――この対比は、参道を歩いていると静かに効いてきます。巡礼の終着点と、たどり着けなかった行軍。同じ谷筋にある二つの物語です。
注意点は参道の門前町の営業時間です。店じまいが早い店も多く、夕方に着くと拝観はできても門前の雰囲気は味わえません。谷汲を楽しむなら午前から午後前半に組み込んでください。
標高978mの雪の峠へ|蝿帽子峠越えという最後の賭け
根尾川をさかのぼる|日当・長嶺に残る行軍の地名
揖斐を発った天狗党は、12月2日に金原・日当、12月3日に長嶺へと進みます。日当(ひなた)は現在の本巣市根尾日当で、樽見鉄道の日当駅がある集落です。この駅は前後をトンネルと鉄橋に挟まれた小さな無人駅で、春には桜に包まれる撮影スポットとして知られています。
行軍のペースを見ると、この区間で一気に速度が落ちているのが分かります。平野部では1日で数十kmを稼いでいた集団が、根尾川に入ってからは1日1集落ずつ。谷が狭まり、道が細くなり、12月の山が本格的に冷え込んでいく――数字が状況を語っています。
鉄道好きの一人旅なら、大垣から樽見鉄道に乗って日当で降りるという追体験ができます。車窓から根尾川の谷が狭まっていく様子を眺めるだけで、天狗党が置かれた地理条件が体に入ってきます。ただし本数が少ないので、時刻表の確認は必須です。
注意点は、日当駅周辺に商店や自販機がほとんどないこと。飲み物や食料は樽見鉄道に乗る前に確保してください。無人駅なので、乗り遅れると次の列車まで数時間待つことになります。
道の駅うすずみ桜の里・ねお|峠へ向かう前の最後の補給地点
根尾エリアで確実に補給ができるのが、国道157号沿いの道の駅うすずみ桜の里・ねおです。営業は9:00〜17:00、休みは月曜(祝日の場合は翌日)。駐車場は普通車33台(うち身障者用2台)と大型2台という規模で、隣接してうすずみ温泉とホテル四季彩館があります。
| 住所 | 岐阜県本巣市根尾門脇433-3 |
| 電話番号 | 0581-38-3430 |
| 営業時間 | 9:00〜17:00 |
| 定休日 | 月曜日(祝日の場合は翌日) |
| 駐車場 | 普通車33台(身障者用2台)/大型2台 |
| 公式情報 | 国土交通省 中部地方整備局 |
ここから北は、店らしい店がほぼ姿を消します。天狗党ルートを北へ追いかけるつもりなら、燃料も食料もこの道の駅までに整えておくのが鉄則です。樹齢1500年余りの淡墨桜が近く、桜の時期は道の駅も周辺道路も一気に混雑します。
ドライブ旅なら、隣接のうすずみ温泉を組み合わせて日帰り温泉で締める流れが気持ちよく決まります。歴史をたどって冷えた体を温泉で戻すという構成は、この地域だからできる贅沢です。
月曜定休という点だけは要注意で、峠方面へ向かう日が月曜だと補給地点が消えます。日曜または平日に組むのが無難です。

12月4日夕方、彼らは978mの峠を登り始めた
蝿帽子峠は標高978m、岐阜県本巣市と福井県大野市の境にある美濃・越前国境の峠です。国道157号の温見峠から東へ約6kmの尾根に位置します。天狗党は12月4日夕方からこの峠を登り始め、越前へ入りました。12月の奥美濃、しかも日没後の山越えです。
この道は天然の獣道ではありません。大垣藩が黒津村と蝿帽子峠の間に道路をつくり、天保13年(1842年)に完成させたもので、以後この道筋が越前への本街道になりました。皮肉なことに、天狗党を追う側だった大垣藩が整備した道を、天狗党が脱出路として使ったことになります。
登り口にあたる大河原(大川原)集落は、貞享2年(1685年)の大垣藩の内検で村高53石、寛政期の記録で家数6・人数62という小さな山村でした。現在は廃村となり、原野に戻っています。天狗党が最後に人の暮らしに触れた場所が、今はもう存在しないのです。
蝿帽子峠へ向かう国道157号の根尾大河原より先は、冬季通行止めになる区間です。一度、11月下旬に「天狗党と同じ時期に同じ道を」と考えて車を走らせ、ゲートの前で引き返したことがあります。原因は、開通期間を確認せずに現地の看板頼みで向かったこと。対策は、岐阜県の道路規制情報で国道157号の通行止め状況を出発前に確認し、閉鎖期間なら道の駅うすずみ桜の里・ねおまでを終点に切り替えることです。峠そのものは登山装備と経験が必要な領域で、観光ドライブの延長で近づく場所ではありません。
蝿帽子峠へ実際に立つのは、登山経験者向けの世界です。無理に近づかなくても、道の駅うすずみ桜の里・ねおから北を眺めれば、彼らが越えていった山の稜線は視界に入ります。「あの向こうが越前」と分かるだけで十分に旅は成立します。峠に立つことを目的にせず、峠を見上げることを目的にする――奥美濃の史跡めぐりでは、この引き際が安全と満足の両方を守ります。
峠の先に待っていた結末|新保での降伏と、敦賀に眠る353人
12月11日、越前国新保宿で823名が武器を置いた
蝿帽子峠を越えた天狗党は、秋生・中島・宝慶寺・薮田・今庄を経て、12月11日に越前国新保宿へ至ります。ここで一行823名が降伏しました。行く手が完全に塞がれ、追討軍による総攻撃の直前という状況です。岐阜の谷を抜けて一週間、彼らの西上はここで終わりました。
降伏の相手は加賀藩でした。当初、天狗党は加賀藩に預けられ、丁重な扱いを受けています。武士としての体面を保ったまま処遇されるかに見えた一瞬が、確かにありました。
この経緯を知ってから岐阜の行程をたどり直すと、日当や長嶺といった地名の重さが変わります。彼らはこの谷を抜けた先に何が待っているか知らないまま、雪の峠を登っていったのです。
注意しておきたいのは、降伏地の新保宿も処刑地の敦賀も福井県であり、岐阜県内ではないという点。岐阜でたどれるのは「決断と行軍」までで、結末を見届けるには県境を越える必要があります。旅程を組むときはこの前提を最初に共有してください。
鰊蔵16棟へ|丁重な扱いが罪人の扱いに変わるまで
加賀藩預かりだった天狗党は、その後幕府に引き渡されます。そこで彼らが送られたのが、肥料となる鰊粕を貯蔵する蔵16棟でした。武士としての降伏から、罪人としての収容へ。この落差が、天狗党の乱の結末を象徴しています。
823名が16棟の蔵に押し込められたという数字を割れば、1棟あたり50人以上。真冬の敦賀で、鰊粕の匂いが染みついた蔵の中で年を越したことになります。岐阜の峠を越えたあの夜から、わずか数週間後の出来事です。
歴史をテーマにした旅では、こうした「数字で分かる悲惨さ」が記憶に残ります。カップルや友人と訪ねるなら、敦賀まで足を延ばして現地の解説を読むと、岐阜で見てきた景色が全部つながります。
ただし、鰊蔵の内部見学には観光ボランティアガイドの申し込みが必要とされています。当日ふらりと訪ねて中まで見られるとは限らないので、内部まで見たい場合は事前手配が前提です。
慶応元年2月、来迎寺境内で353名|武田耕雲斎の最期
形式的な取り調べを受けた後、1865年(慶応元年)2月、敦賀市松島町の来迎寺境内で353名が斬罪に処されました。武田耕雲斎もその一人で、没したのは元治2年2月4日(1865年3月1日)。副将の藤田小四郎とともに斬首されています。享和3年(1803年)生まれですから、62歳前後での最期でした。
処罰は本人にとどまりませんでした。妻・妾・幼児を含む子孫も水戸で斬首刑に処されています。首領として担がれた代償は、一族の断絶という形で支払われました。彼の墓所は水戸市の妙雲寺と、敦賀市松島町の国史跡・武田耕雲斎等墓の二か所にあります。
| 住所 | 福井県敦賀市松島町 |
| 電話番号 | 0770-22-8167(港都つるが観光協会) |
| 見学 | 無料(鰊蔵の内部見学は観光ボランティアガイドの申込が必要) |
| アクセス | 北陸自動車道 敦賀ICから約13分/JR敦賀駅からタクシー約7分 |
| 公式サイト | 敦賀市(国史跡 武田耕雲斎等墓ガイドブック) |
敦賀市は『国史跡 武田耕雲斎等墓ガイドブック』をPDFで公開しています。現地へ向かう前に目を通しておくと、墓所に並ぶ石の意味が分かります。見学は無料で、北陸自動車道の敦賀ICから約13分。本巣市から白鳥・福井経由で回れば、1泊2日で岐阜〜福井をつなぐ行程が組めます。
一人旅で静かに手を合わせたい方に向く場所です。観光地としての賑わいはなく、松原の一角に353人の墓が並びます。写真を撮る目的よりも、立って考える目的で訪ねるほうがしっくりきます。
ぎふ旅手帖調べ|岐阜から敦賀まで、たどれる5スポットを比較する
武田耕雲斎ルートは東西に長く、1日で全部は回れません。どこを削り、どこを残すか。判断材料として、主要5スポットの条件を並べて比較しました(2026年8月時点、各施設の公式情報をもとにぎふ旅手帖調べ)。
| スポット | 料金 | 営業・開館 | 休み |
|---|---|---|---|
| 中山道歴史資料館(中津川市) | 大人320円 中学生以下無料 |
9:30〜17:00 (入館16:30) |
月曜・年末年始 |
| 太田宿中山道会館(美濃加茂市) | 無料 | 9:00〜17:00 | 月曜(祝日は開館) |
| 鵜沼宿町屋館(各務原市) | 無料 | 9:00〜17:00 | 月曜・祝日の翌日 |
| 揖斐川歴史民俗資料館(揖斐川町) | 高校生以上110円 小中学生20円 |
9:00〜17:00 | 月曜・祝日の翌日 |
| 武田耕雲斎等墓(敦賀市) | 無料 | 屋外・随時 | なし |
この表から読み取れるのは、有料施設が中津川と揖斐川町の2館だけで、合計しても430円で済むということです。中山道側は無料施設が多く、費用よりも「休館日をどう避けるか」が旅程の主要な制約になります。
1日で回るなら「中津川+大井宿」の東濃編か、「揖斐川町+谷汲+根尾」の西濃編か、どちらかに絞るのが正解です。中津川から根尾まで車で移動すると片道2時間半以上かかり、資料館の閉館時間に追われることになります。東濃編・西濃編を別の日に分け、余裕があれば3日目に敦賀――この3分割が、もっとも取りこぼしの少ない組み立て方です。
まとめ|岐阜の谷に残る、800人が歩いた9日間の記憶
武田耕雲斎という名前は、教科書では「天狗党の首領」の一語で片づけられがちです。けれど岐阜県内をたどってみると、そこにあるのは英雄譚でも反乱譚でもなく、追い詰められた800人が地形と天候と政治のあいだで判断を重ねていった記録でした。中津川で五平餅を受け取り、鵜沼で封鎖線を前にし、揖斐で京都を諦め、根尾の谷をさかのぼって978mの峠を登る。その9日間が、そのまま岐阜県を東から西へ横断する旅のルートになっています。
そして印象的なのは、岐阜の宿場町が彼らを撃たなかったことです。二度の合戦を勝ち抜いてきた集団に対し、中津川宿は炊き出しをし、戦死者の首を弔いました。諸藩は街道を封鎖しながらも、正面からぶつかることは選びませんでした。幕末という時代に、街道沿いの人々がどう身を処したのか――その答えが、岐阜の中山道には確かに残っています。
旅として組むなら、無理をしないことが何より大切です。中津川から根尾までは車で片道2時間半以上。1日に全部を詰め込むと、どこかの資料館の閉館時間に必ず引っかかります。東濃編(中津川・大井宿)と西濃編(揖斐川町・谷汲・根尾)に分け、それぞれ半日から1日をあてる。この分け方なら、どの施設も余裕をもって見られます。
📝 ポイントまとめ
- 武田耕雲斎は享和3年(1803年)生まれの水戸藩士で、参政・執政を務めた改革派の重臣だった
- 天狗党約800名は元治元年11月26日に馬籠・落合へ分宿し、岐阜県内に入った
- 11月27日、中津川宿は五平餅・きしめん・納豆でもてなし、戦死者の首を埋葬した
- 11月29日に鵜沼、12月1日に揖斐へ。ここで琵琶湖畔ルートを断念し北へ転進した
- 12月4日夕方、標高978mの蝿帽子峠を越えて越前へ。この道は大垣藩が天保13年に整備したもの
- 12月11日に越前国新保で823名が降伏、翌年2月に敦賀・来迎寺境内で353名が斬罪となった
- ルート上の資料館は月曜・祝日の翌日休館が多く、出発前の確認が旅程の成否を分ける
最初の一歩としておすすめしたいのは、中津川市中山道歴史資料館です。入館料320円、中学生以下は無料。ここで天狗党の往来を伝える古文書に触れてから馬籠宿の坂を歩けば、観光地として何度も見てきた石畳が、まったく別の顔で立ち上がってきます。開館は9:30から、入館締切は16:30。午前中に着けるよう家を出れば、その日のうちに大井宿まで足を延ばせます。
西濃側から入りたい方は、揖斐川歴史民俗資料館(高校生以上110円)を起点に、三輪神社と谷汲山華厳寺を回り、時間があれば道の駅うすずみ桜の里・ねおまで北上する流れが組みやすいでしょう。峠そのものには近づかず、道の駅から北の稜線を見上げて「あの向こうが越前」と確かめる。それだけで、この物語の距離感は十分に体に入ってきます。
※掲載している料金・営業時間・休館日は2026年8月時点の情報です。訪問前に各施設の公式サイトでご確認ください。

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