関ケ原の史跡めぐりをしていると、地図の南のはずれに「島津豊久碑」という名前を見つけて、手が止まる方が多いのではないでしょうか。合戦場の中心から離れているのに、なぜここだけ独立した史跡として案内されているのか。そもそも島津豊久とは誰で、この碑は何を記念しているのか。調べ始めると、関ケ原の主戦場の地図には答えが載っていません。
先に結論をお伝えします。島津豊久碑が立つのは関ケ原町ではなく、南隣の大垣市上石津町牧田。旧伊勢街道の烏頭坂という坂道の途中です。ここは合戦が決した後、島津隊が東軍のただ中を突っ切って伊勢街道へ抜けた「島津の退き口」の舞台で、豊久が伯父・島津義弘を逃がすために殿軍(しんがり)を務めた地とされています。見学は無料、いつでも自由に立ち寄れます。
この記事では、碑の正確な場所と行き方から、島津豊久という武将の生涯、「捨てがまり」と呼ばれた壮絶な撤退戦、そして碑の先に点々と続く退き口ゆかりの地までを、車で回る前提で整理しました。関ケ原の主戦場だけを見て帰るのと、この坂道まで足を延ばすのとでは、合戦の印象がまるで変わります。
・島津豊久碑の正確な所在地と、関ケ原ICからの行き方
・島津豊久という武将の生涯と、享年30という記録の意味
・「捨てがまり」と呼ばれた退き口の実像と、討死の地をめぐる諸説
・碑の先に続く島津塚・勝地峠・白拍子谷までのたどり方
・関ケ原の史跡・記念館とあわせて回る現実的なルートと注意点
島津豊久碑はどこにある?烏頭坂に立つ石碑への行き方

関ケ原の史跡は町内に集中していますが、この碑だけは県道と国道をひとつ南へ越えた先にあります。ここを取り違えると、当日かなりの時間を無駄にします。まずは場所の話から片づけましょう。
関ケ原町だと思っていたら大垣市だった|住所は上石津町牧田
島津豊久碑の所在地は、岐阜県大垣市上石津町牧田741。関ケ原古戦場の史跡群と同じ感覚で「関ケ原町○○」と入力しても出てきません。関ケ原観光ガイドと岐阜県観光公式サイトの双方が、この碑を大垣市のスポットとして掲載しています。大垣市の観光ポータルでは、同じ烏頭坂を上石津町牧田5078-9として案内しており、坂全体が史跡という性格上、地番の示し方に幅があります。
碑が立つのは旧伊勢街道沿いの坂道です。合戦の主戦場からは、南東へ谷ひとつ分下った位置にあたります。島津隊が関ケ原の盆地を突っ切って伊勢方面へ抜けようとしたルートそのもので、地形を見ると「なぜここで足止めされたのか」が体で理解できます。碑のまわりには島津家の家紋が入ったのぼりが立ち、鹿児島県から寄贈されたベンチも置かれ、地元と薩摩の縁で手入れが続けられている場所です。
訪ねるのに向いているのは、関ケ原の主戦場を一通り見た後、そのまま南下して伊勢方面や養老へ抜けるドライブ旅の途中。逆に、公共交通だけで関ケ原駅周辺を歩く旅程には組み込みにくい立地です。注意点として、屋外の史跡なので開場時間も料金もない代わり、トイレも売店もありません。関ケ原の中心部で用を済ませてから向かうのが無難です。
| 所在地 | 岐阜県大垣市上石津町牧田741 |
| 見学料 | 無料 |
| 見学時間 | 屋外史跡のため自由 |
| 車でのアクセス | 名神高速道路 関ケ原ICから南東へ車で約5分 |
| バスでのアクセス | 名阪近鉄バス「門前口」バス停より徒歩7分 |
| 駐車場 | 専用駐車場の案内なし |
| 情報源 | 関ケ原観光ガイド 公式サイト |
関ケ原ICから南東へ車で約5分|国道365号を下るだけの単純ルート
車なら迷う要素はほとんどありません。名神高速道路の関ケ原ICを降りて国道365号を南へ下ると、関ケ原観光ガイドの案内では南東へ車で約5分の距離です。名古屋方面からは名神で関ケ原ICまで、関ケ原の主戦場を先に回ってから南下する流れが自然です。
この道は関ケ原と伊勢・養老方面を結ぶ生活道路でもあり、通勤時間帯は流れが重くなります。史跡めぐりの車が集中する時間帯ではないので渋滞というほどではありませんが、路肩が狭い区間があり、碑の前で停車して写真を撮るのは避けたほうが安全です。
おすすめの組み方は、関ケ原の主戦場を午前に回り、昼過ぎに南下して烏頭坂、そのまま上石津の史跡をたどって夕方に養老方面へ抜けるドライブ。カップルや一人旅なら、坂の上から街道筋を見下ろす時間を長めに取れます。家族連れの場合、碑そのものは滞在10分ほどで見終わるので、後述する多良峡や資料館とセットにしないと物足りなさが残ります。
バスなら「門前口」下車徒歩7分|公共交通は本数との勝負
公共交通で行く場合は、名阪近鉄バスの「門前口」バス停が最寄りで、そこから徒歩7分と案内されています。歩く距離自体は短く、道もわかりやすい街道筋です。
ただし、上石津方面のバスは都市部の感覚とはまったく違う運行本数です。行きの1本を逃すと次まで長時間空くことがあり、帰りの便を先に確認せずに降りると身動きが取れなくなります。時刻表を先に押さえ、滞在時間を逆算してから乗るのが鉄則です。
この行き方が向いているのは、時間に余裕のある一人旅で、街道を歩く感覚そのものを味わいたい人。関ケ原駅を拠点にレンタサイクルで史跡を回るスタイルもありますが、烏頭坂までは登り基調の道が続くため、電動アシストでない自転車では体力を消耗します。関ケ原の主戦場めぐりと同じ感覚で足を延ばすと、想定より疲れる点は覚悟しておきたいところです。

「関ヶ原に着いたはいいけれど、まず何をどこから見ればいいの?」——JR関ケ原駅に降り立った旅行者の多くが、最初に立ち止まる場所です。天下分け目の合戦の舞台は驚く…
「島津」で検索して別の場所に着いた|地図アプリの落とし穴
実際にありがちな失敗が、カーナビや地図アプリで「島津」とだけ入力して目的地を設定してしまうケースです。島津の退き口ゆかりの地は上石津町内に複数点在していて、島津豊久碑(牧田)、島津塚(上多良)、島津越え=五僧峠(時山)が別々の地点として登録されています。どれも「島津」を含むため、意図しない候補に案内されます。
特に五僧峠は滋賀県境へ向かう狭い林道で、うっかり案内されると引き返すのも一苦労です。原因は名称の類似、対策はシンプルで、目的地を「大垣市上石津町牧田741」という住所で直接指定すること。あるいは施設名なら「島津豊久碑」とフルネームで入力し、候補の住所欄が牧田になっているかを出発前に確認します。
もうひとつ、碑は坂の途中にあり、周囲に大きな看板やランドマークがありません。走行速度が出ていると視界から消えます。国道365号を南下しながら「そろそろ」と思ったら速度を落とし、のぼりの色を目印に探すと見つけやすくなります。
島津豊久とは何者だったのか|30年で閉じた生涯をたどる
碑の前に立つとき、そこに刻まれた名前の人物像を知っているかどうかで、見える景色が変わります。島津豊久は、教科書には出てこないけれど、関ケ原を語るうえで外せない武将です。
島津家久の子にして義弘の甥|1570年生まれの若き大将
島津豊久は元亀元年(1570年)の生まれ。父は島津家久、母は樺山善久の娘とされます。島津四兄弟の末弟を父に持ち、関ケ原で西軍にあった島津義弘は伯父にあたる関係です。九州統一戦で名を馳せた一族の中で、若くして日向・佐土原の領主となりました。
関ケ原に至るまでの経歴は、九州での実戦を重ねた武将としてのものです。豊臣政権下の朝鮮出兵にも従い、義弘のもとで戦場を経験しています。碑の前で「若い武将が伯父を逃がした」という一行だけを読むと美談に聞こえますが、実際には実戦経験を積んだ指揮官が、勝ち目のない状況を計算したうえで殿軍を選んだ、という読み方のほうが実像に近いはずです。
歴史好きの一人旅なら、鹿児島から岐阜まで続くこの一族の物語を追いかけるだけで一日が終わります。逆に、予備知識ゼロの同行者を連れて行くと「石碑があるだけ」で終わってしまうので、車内で人物関係を簡単に共有してから降りると、現地での反応がまるで変わります。
📜 歴史メモ|島津豊久の基本データ
生年は元亀元年6月11日(1570年)、没年は慶長5年9月15日、享年30と伝わります。通称は又七郎、官位は侍従・中務大輔。父は島津家久、伯父が関ケ原で西軍にあった島津義弘です。関ケ原では殿軍を務め、中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら13騎とともに大軍へ駆け入って討死したと記録されています。
又七郎、中務大輔|通称と官位から見える立ち位置
豊久の通称は又七郎、官位は侍従および中務大輔と伝わります。官位を帯びているということは、豊臣政権下で一定の格を認められた大名だったということです。単なる一族の若手ではなく、独立した領主として遇されていた事実が、名前の表記から読み取れます。
この格の高さは、退き口の局面で意味を持ちます。殿軍という役目は、部隊の中で最も危険な持ち場です。そこに一門の若い当主が自ら入るというのは、代替の効かない人物を捨て駒にする決断でもありました。伯父を生かして家を残すという選択が、どれほど重い天秤の上にあったかがわかります。
史跡を歩くとき、案内板の情報量は限られています。碑の前で立ち尽くさないためには、こうした肩書きの意味を先に押さえておくのが有効です。注意点として、関ケ原周辺の史跡は解説板の更新頻度が高くなく、詳しい人物解説は岐阜関ケ原古戦場記念館の展示のほうが充実しています。人物から入りたい人は、記念館を先に見てから碑へ向かう順番がおすすめです。
慶長5年9月15日、享年30|合戦当日に閉じた生涯
豊久の没年は慶長5年9月15日、つまり関ケ原の合戦当日です。享年は30と伝わります。この数字は、関ケ原という戦いの性格を端的に示しています。半日で決着した合戦の、決着した後の時間帯に、この人物は命を落としました。
戦いが終わってから始まった撤退戦で最大の犠牲が出た、という事実は、主戦場の陣跡だけを回っていると見落とします。烏頭坂に立つ碑は、関ケ原という出来事が「布陣図の上の勝敗」で終わらなかったことを示す物証です。
実際に訪ねるなら、時間帯を意識してみてください。合戦は午前に始まり、昼過ぎには趨勢が決したと伝わります。午後の光の中で坂道に立つと、追う側と追われる側の距離感が想像しやすくなります。ただし秋冬は日没が早く、坂道は日陰になるのが早いので、夕方遅くの訪問は写真も足元も厳しくなります。

墓所は岐阜と鹿児島の2か所|どちらも「豊久の墓」である理由
豊久の墓所として伝わるのは、岐阜県大垣市上石津町烏頭坂と、鹿児島県日置市の天昌寺の2か所です。討死した地に地元の人々が塚を築き、本国では菩提寺が供養を続けた、という二重構造になっています。
どちらか一方が偽物という話ではありません。戦国期の武将の墓は、遺体の埋葬地と供養の場が分かれる例が珍しくなく、豊久の場合は討死の地が敵地であったことがその事情を強めています。上石津の島津塚には、地元が四百年以上にわたって手を合わせてきた歴史が積み重なっています。
ここを訪ねる人には、鹿児島から来る参拝者も少なくありません。碑のまわりに鹿児島県から寄贈されたベンチが置かれ、毎年、薩摩ゆかりの小中学生が訪れているのも、その縁の表れです。見学の際は、あくまで供養の場であることを意識して、静かに手を合わせる姿勢で立ち寄りたい場所です。
「捨てがまり」はなぜ語り継がれるのか|13騎で大軍に挑んだ殿戦

島津の退き口が語り継がれるのは、その戦法があまりに常識外れだったからです。ここでは何が起きたのかを、順を追って整理します。
逃げ道は背後ではなく、敵の正面だった
関ケ原で西軍が崩れたとき、島津隊が選んだのは背後への退却ではなく、東軍の正面を突っ切る前進でした。西軍の布陣地のほぼ中央にいた島津隊は、退路を断たれた状態にあり、南東の伊勢街道へ抜けるには敵中を突破するしかなかったのです。
島津隊の兵力は約800名程度だったと伝わります。数万が入り乱れる戦場で、この規模の部隊が正面突破を選ぶのは、常識で考えれば全滅を意味します。それでも実行され、義弘は生きて薩摩へ帰り着きました。この一点が、関ケ原の数ある逸話の中でも島津の退き口が別格に扱われる理由です。
史跡を回るときは、この移動の方向を意識すると理解が深まります。島津義弘陣跡(関ケ原町)から烏頭坂(大垣市上石津町牧田)へ、そこから島津塚(上多良)へ。地図上で線を引くと、北西から南東へ一直線に伸びています。車で同じ順にたどるだけで、退き口が体験としてつながります。
「捨てがまり」とは何だったのか|足を止めるための犠牲
薩摩勢がとった戦法は「捨てがまり」「捨て奸」と呼ばれます。撤退する本隊から少人数を切り離して座り込ませ、追撃してくる敵に鉄砲を撃ちかけて足を止めさせる。その一隊は全滅する前提で、これを繰り返しながら本隊が距離を稼ぐという仕組みです。
島津隊は鉄砲を巧妙に使う部隊として知られ、関ケ原の布陣時にも騎馬隊を次々に退けたと伝わります。撤退戦でその技術が生きた形ですが、代償は残された者の命でした。豊久が引き受けたのは、この仕組みの最も過酷な役回りです。
現地で立つと、この戦法が地形と噛み合っていたことがわかります。烏頭坂も、その先の勝地峠も、道幅が限られた坂道です。大軍が横に広がれない場所で足を止められれば、少人数でも時間を稼げます。訪ねる際は、坂の勾配と道の狭さを実際に目で確かめてみてください。
島津の退き口ゆかりの地は、上石津町の牧田・下多良・上多良・時山という4つの地区にまたがって点在しています。すべて国道365号とその周辺に沿っているため、車なら順にたどれる一本道です。逆に言えば、一か所だけ見て引き返すと、この史跡群の意味は半分も伝わりません。
井伊直政と松平忠吉を迎え撃った烏頭坂
烏頭坂で豊久が迎え撃ったのは、井伊直政と松平忠吉の部隊と伝わります。井伊直政は徳川四天王の一人、松平忠吉は家康の四男。東軍の中でも精鋭にあたる追手です。この2人は関ケ原の開戦地でも先陣を切った人物で、合戦の始まりと終わりの両方に登場します。
岐阜県観光公式サイトの解説では、豊久はこの戦いで重傷を負いながら伊勢街道へ逃れたとされています。碑はその勇戦を讃える顕彰碑という位置づけです。追う側の井伊直政もこの追撃戦で銃創を負い、後の死因になったと伝わっており、双方に深い傷を残した局面でした。
関ケ原の史跡めぐりでは、開戦地に近い松平忠吉・井伊直政陣跡と、この烏頭坂をセットで訪ねると、同じ登場人物が朝と午後で違う役割を演じたことが立体的に理解できます。時間が許すなら、朝に陣跡、午後に烏頭坂という順で回るのが構成として気持ちよく決まります。

実は討死の場所には諸説ある|碑の前で知っておきたいこと
意外と知られていないのですが、豊久がどこで命を落としたのかについては、記録が一致していません。烏頭坂で13騎とともに敵中へ駆け入って討死したという伝えがある一方、重傷を負いながら義弘を追い、上石津の樫原付近まで落ち延びてそこで没したという説も残っています。上多良の白拍子谷を自刃の地とする伝承もあります。
この食い違いは、史跡めぐりをする側にとってはむしろ幸運です。烏頭坂の碑だけを見て帰るのではなく、勝地峠を越え、白拍子谷を通り、島津塚まで足を延ばす理由が生まれるからです。どの説を採るかで訪ねるべき場所が変わり、結果として上石津の谷筋を丸ごと歩くことになります。
注意したいのは、案内板に書かれた内容がすべて一致するとは限らない点です。碑の解説と、少し先の史跡の解説で微妙にニュアンスが違うことがあります。それを矛盾と捉えるのではなく、四百年の間に地元で語り継がれた記憶の層と受け止めると、この一帯の歩き方が変わってきます。
碑の先に道は続く|島津塚・勝地峠・白拍子谷をたどる
烏頭坂は退き口の終点ではありません。碑から南へ、退却路は谷の奥へと続いていきます。ここからは、車で順にたどれる史跡を紹介します。
島津塚|森の中に眠る五輪塔が退き口の終着点
島津塚は、豊久の墓所とされる五輪塔です。所在地は岐阜県大垣市上石津町上多良960。瑠璃光禅寺の西の森「カンリンヤブ」と呼ばれる木立の中に祀られており、薩摩塚とも呼ばれます。目印は上多良公民館で、その向かい側にあたります。
ここが退き口をたどる旅の実質的な終着点です。烏頭坂の碑が「戦った場所」を示すのに対し、島津塚は「眠っている場所」。同じ人物の史跡でも、立ったときの空気がまるで違います。木立の中は昼でも薄暗く、静けさが際立ちます。
歴史に興味のある大人同士の旅なら外せない一か所ですが、小さな子ども連れの場合は森の中を少し歩く点を考慮してください。舗装された観光地ではなく、地元が守ってきた祈りの場です。注意点として、専用駐車場の案内はありません。公民館周辺で無断駐車をしないよう、停める場所には十分な配慮が必要です。
| 所在地 | 〒503-1623 岐阜県大垣市上石津町上多良960 |
| 見学料 | 無料 |
| 見学時間 | 屋外史跡のため自由 |
| 目印 | 上多良公民館の向かい側/瑠璃光禅寺西の森 |
| 駐車場 | 専用駐車場の案内なし |
| 情報源 | 岐阜県観光公式サイト「岐阜の旅ガイド」 |
勝地峠|伊勢西街道最大の難所で繰り返された足止め
烏頭坂と島津塚のあいだにあるのが勝地峠です。所在地は大垣市上石津町下多良882。大垣市の観光ポータルでは伊勢西街道最大の難所と紹介され、豊久隊が最後の捨て奸を実行した場所と伝えられています。
難所と呼ばれる理由は、実際に走ってみるとわかります。坂と曲がりが連続し、視界が効きません。追う側からすれば、いつ横から鉄砲が飛んでくるかわからない道です。少人数で大軍を止めるという捨てがまりの発想が、この地形を前提にしていたことが実感できます。
ドライブで通る際は、対向車に注意してください。史跡としての整備は最小限で、停車して見学できるスペースが十分にあるとは限りません。車を降りて散策するというより、通過しながら地形を体感する場所と割り切るのが現実的です。歴史好きの一人旅やカップルのドライブなら、ここを通ること自体が旅の中身になります。
退き口ゆかりの地は、いずれも屋外の史跡で、専用駐車場やトイレの案内がありません。上石津エリアは店舗も点在しているため、飲み物や軽食は関ケ原の中心部で用意してから南下するのが安全です。冬季は路面凍結の可能性もあり、坂道が連続する区間ではスタッドレスタイヤが前提になります。
白拍子谷|自刃の地と伝わる、もうひとつの終焉伝承
白拍子谷は、豊久が自刃したと伝わる地です。所在地は大垣市上石津町上多良2045-1。烏頭坂での討死説とは別に、この地まで落ち延びて命を絶ったという伝承が残されています。
史跡としての整備は控えめで、観光地らしい設備は期待できません。それでも、地名と伝承が残り続けているという事実そのものが、この谷で何かがあったことを物語ります。上多良地区の中にあり、島津塚とあわせて訪ねるのが動線として自然です。
ここまで足を延ばすなら、退き口ゆかりの地を「点」ではなく「線」で見る覚悟が必要です。半日では足りません。丸一日を上石津に充てるつもりで組むと、ようやく谷筋全体が見えてきます。逆に、関ケ原とセットで慌ただしく回ろうとすると、どこも中途半端になります。
琳光寺と五僧峠|身代わりになったのは豊久だけではない
上石津町牧田2487にある琳光寺には、島津義弘の家老・長寿院盛淳の五輪塔と墓前碑があります。盛淳もまた義弘の身代わりとなって命を落としたと伝わる人物で、退き口が一人の犠牲で成立したわけではないことを教えてくれます。
さらに南西、上石津町時山609付近には「島津越え」とも呼ばれる五僧峠があります。島津隊が近江へ抜けたと伝わる峠道です。ただしここは滋賀県境へ向かう狭い山道で、対向困難な区間が続きます。観光目的で気軽に車を入れる場所ではありません。
史跡の完全踏破を目指す人以外は、琳光寺までにとどめるのが現実的な判断です。五僧峠は地図上で位置を確認し、「ここを越えて薩摩へ帰った」という事実を頭に入れるだけでも十分に意味があります。無理をして脱輪する事故が起きやすい道であることは、正直にお伝えしておきます。
島津豊久碑とあわせて回りたい関ケ原の史跡
烏頭坂だけを訪ねると、そこに至るまでの経緯が抜け落ちます。退き口が始まった場所と、全体像を学べる施設を先に押さえておくと、碑の前での時間が濃くなります。
島津義弘陣跡|退き口はこの神社の裏から始まった
島津義弘陣跡は、関ケ原町1869-3。JR関ケ原駅より北西に徒歩15分、神明神社付近にあります。西軍布陣地のほぼ中央にあたり、「小池島津義弘陣所跡碑」が立っています。
約800名という少数部隊が、この位置から東軍のただ中へ突っ込んでいったわけです。現地に立って南東の方向を見ると、そこから烏頭坂までの距離感がつかめます。地図で見るのと、実際に立って見渡すのとでは、無謀さの実感がまるで違います。
駅から徒歩圏なので、公共交通派でも組み込みやすい史跡です。ただし周辺は住宅と農地が混じるエリアで、大型の駐車場は用意されていません。車の場合は、記念館の駐車場を拠点にして徒歩や自転車で回る方法が現実的です。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町1869-3 |
| 見学料 | 無料 |
| アクセス | JR関ケ原駅より北西に徒歩15分(神明神社付近) |
| 駐車場 | 専用駐車場の案内なし |
| 情報源 | 岐阜県観光公式サイト「岐阜の旅ガイド」 |
岐阜関ケ原古戦場記念館|一般500円で合戦の全体像をつかむ
関ケ原町関ケ原894-55にある岐阜関ケ原古戦場記念館は、合戦の全体像を短時間で理解するのに最も効率のよい施設です。観覧料は一般500円、高校生・大学生300円、中学生以下は無料。20名以上の団体は一般400円、高校生・大学生240円になります。年間パスポートは一般1,200円です。
開館は9:30〜17:00で、入館は16:30まで。休館日は毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)と年末年始(12/29〜1/3)です。駐車場は普通自動車100台と大型バス用が用意されており、車で来る史跡めぐりの拠点として使えます。
1階のグラウンド・ビジョンとシアターは事前予約優先です。予約サイトの受付・キャンセルは前日までで、当日の飛び込みでは映像展示を見られない可能性があります。予約がなくても2階の展示室と5階の展望室には入場できるので、時間が読めない旅程なら展示室だけと割り切る手もあります。なお、秋季企画展の期間(10月6日〜11月23日)は一般1,000円、高校生・大学生800円に料金が変わります。
| 所在地 | 〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55 |
| 電話番号 | 0584-47-6070 |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12/29〜1/3) |
| 観覧料 | 一般500円/高校生・大学生300円/中学生以下無料 |
| 駐車場 | 普通自動車100台、大型バス駐車場あり |
| アクセス | JR関ケ原駅から北へ徒歩約10分/名神高速道路 関ケ原ICから北へ車で約5分 |
| 公式サイト | 岐阜関ケ原古戦場記念館 公式サイト |
ぎふ旅手帖調べ|退き口関連5スポットを見学時間と料金で比較
どこまで回るかを決めるために、退き口をたどるうえで軸になる5スポットを、所在地・料金・アクセス条件で並べました。料金の有無と、駐車場の有無で性格がはっきり分かれます。
| スポット | 所在地 | 料金 | 駐車場 |
|---|---|---|---|
| 島津義弘陣跡 | 関ケ原町1869-3 | 無料 | 案内なし |
| 岐阜関ケ原古戦場記念館 | 関ケ原町関ケ原894-55 | 一般500円 | 100台 |
| 島津豊久碑(烏頭坂) | 大垣市上石津町牧田741 | 無料 | 案内なし |
| 島津塚(豊久の墓) | 大垣市上石津町上多良960 | 無料 | 案内なし |
| 大垣市上石津郷土資料館 | 大垣市上石津町宮237-1 | 一般100円 | 案内なし |
表を見てわかるのは、有料施設は記念館と資料館の2か所だけで、退き口ゆかりの地そのものはすべて無料だということ。つまり費用より、移動時間と駐車場の確保がボトルネックになります。記念館を拠点に据えて、そこから南下する組み立てが最も無理がありません。

「関ヶ原の戦い布陣図を見ると西軍のほうが有利そうなのに、なぜ負けたの?」——歴史好きなら誰もが一度は抱く疑問です。教科書に載っている布陣図は、東軍を三方から囲む…
半日コースと1日コース|どこで線を引くか
半日しか取れない場合は、岐阜関ケ原古戦場記念館で全体像をつかみ、島津義弘陣跡を見てから、島津豊久碑まで南下して折り返すのが現実的です。移動の中心は車で、記念館の見学に時間を割く構成になります。
丸一日使えるなら、そこから勝地峠を越えて島津塚、白拍子谷まで足を延ばし、上石津郷土資料館や多良峡森林公園を組み込めます。ドライブ旅としての満足度は、この1日コースのほうが圧倒的に高くなります。
家族連れの場合は、石碑だけが続く行程に子どもが飽きるリスクを織り込んでください。記念館の映像展示と、多良峡のつり橋という「動きのある場所」を前後に挟むと、全員が楽しめる形になります。カップルや一人旅なら、峠道と森の静けさを味わう時間をたっぷり確保する組み方がおすすめです。
訪ねる前に押さえたい注意点|季節・時間・装備
屋外の史跡が中心になるこのエリアは、季節と時間帯の影響を強く受けます。事前に知っておくだけで防げるつまずきをまとめました。
月曜に行って記念館が閉まっていた|休館日と受付終了の罠
ありがちな失敗が、月曜日に関ケ原へ来て記念館の前で立ち尽くすパターンです。岐阜関ケ原古戦場記念館は毎週月曜日が休館(祝日の場合は翌平日)。さらに年末年始は12/29〜1/3が休みです。上石津郷土資料館のほうは火曜日と祝日の翌日が休館で、休みの曜日が食い違っています。
原因は「屋外の史跡がメインだから施設の休みは関係ない」という思い込みです。対策としては、月曜は記念館が閉まる前提で、屋外史跡と資料館を組み合わせる。火曜は資料館が閉まる前提で、記念館を軸に組む。この使い分けを出発前に決めておけば、現地で慌てずに済みます。
もうひとつ盲点なのが入館受付の終了時刻です。記念館は16:30、上石津郷土資料館も16:30で受付が終わります。南の史跡を先に回ってから北へ戻ると、この時刻に間に合わないことがよくあります。有料施設を先、屋外史跡を後という順番が、結果的に取りこぼしを減らします。
冬の坂道と、秋の早い日没|季節ごとのリスク
上石津は谷筋の地域で、冬は路面が凍る日があります。烏頭坂も勝地峠も坂と曲がりの連続なので、冬季はスタッドレスタイヤが前提です。ノーマルタイヤで軽い気持ちで入ると、下りで止まれない状況になりかねません。
秋は紅葉が美しい季節ですが、日没が早まります。谷筋は周囲の山に日を遮られるため、平地の感覚より一段階早く暗くなります。屋外の石碑は照明がないので、暗くなってからでは碑文も読めません。
季節別に言えば、春から初夏が最も歩きやすい時期です。新緑の街道筋は気持ちよく、日も長いので行程に余裕が生まれます。夏は谷筋でも日差しが強く、屋外史跡の見学が続くと消耗します。飲み物を必ず車に積んでおいてください。
トイレとコンビニは関ケ原で|屋外史跡が続く行程の準備
退き口ゆかりの地はいずれも屋外の史跡で、トイレや売店の案内がありません。上石津エリアは店舗が点在しているため、関ケ原の中心部を離れる前に、トイレ・飲み物・軽食を済ませておくのが基本になります。
岐阜関ケ原古戦場記念館は普通自動車100台の駐車場があり、拠点として使いやすい施設です。ここで一息入れてから南下するリズムが、この史跡めぐりには合っています。上石津側では、上石津郷土資料館が休憩を兼ねられる数少ない屋内施設です。
家族連れの場合、この準備を怠ると行程の途中で引き返すことになります。逆に、しっかり準備できていれば、石碑と峠道が続く行程でも最後まで気持ちよく回れます。ドライブ旅の計画としては、この一手間が満足度を大きく左右します。
シーン別の楽しみ方|誰と行くかで組み方を変える
ドライブ旅なら、関ケ原ICを起点に国道365号を南下し、烏頭坂から島津塚、そのまま養老方面へ抜けるルートが気持ちよく決まります。一本道でつながっているので、ナビに頼らず走れるのも魅力です。
家族連れなら、記念館の映像展示と多良峡のつり橋を軸にして、石碑は要点だけ押さえる構成が現実的。歴史の話は車内で済ませ、現地では体を動かせる場所を増やすとバランスが取れます。
カップルや一人旅なら、時間を気にせず峠道と森を味わう組み方ができます。特に島津塚の木立の静けさは、人が少ない時間帯に訪れると印象が強く残ります。ただし夕方以降は森の中が急速に暗くなるため、明るいうちに切り上げる判断は必要です。
上石津をもっと味わう|資料館と渓谷でもう半日
石碑めぐりだけで帰るのはもったいないエリアです。退き口の史跡と同じ道沿いに、休憩と学びを兼ねられる場所があります。
大垣市上石津郷土資料館|一般100円で地域の歴史を掘り下げる
上石津町宮237-1にある大垣市上石津郷土資料館は、一般100円という料金で地域の歴史と民俗資料に触れられる施設です。20人以上の団体は50円、18歳未満と市内在住の65歳以上は無料になります。
開館時間は9:30〜17:00で、入館受付は16:30まで。休館日は火曜日、祝日の翌日、年末年始(12月29日〜1月3日)です。記念館の休館日が月曜であるのに対し、こちらは火曜。この違いを把握しておくと、曜日に応じた組み替えができます。
屋外の石碑を回った後に、その土地の暮らしと歴史を屋内でつなげられるのが、この資料館の価値です。石碑だけを見て帰ると「戦国の一場面」で終わりますが、地域の資料に触れると、四百年その記憶を守ってきた人々の側の物語が見えてきます。注意点として、駐車場の案内が公式ページに記載されていないため、車で向かう場合は事前に電話で確認しておくと安心です。
| 所在地 | 〒503-1625 岐阜県大垣市上石津町宮237-1 |
| 電話番号 | 0584-45-3639 |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(入館受付は16:30まで) |
| 休館日 | 火曜日、祝日の翌日、年末年始(12月29日〜1月3日) |
| 入館料 | 一般100円/団体20人以上50円/18歳未満・市内在住65歳以上無料 |
| 情報源 | 大垣市公式ホームページ |
多良峡森林公園|つり橋と全長2.2kmの渓谷でクールダウン
上石津町の多良峡森林公園は、全長2.2kmの渓谷にある無料の公園です。養老国定公園に含まれ、岐阜県の名水50選、飛騨・美濃紅葉33選にも選ばれています。つり橋と遊歩道が整備され、春の新緑、秋の紅葉が楽しめます。
石碑めぐりで気持ちが重くなった後に、水音と緑で切り替えられるのがこの公園の役割です。子ども連れなら、つり橋を渡るだけで表情が変わります。関ケ原と上石津の史跡を回る一日の締めくくりとして、動線的にも収まりがよい場所です。
ここで気をつけたいのが駐車場です。公園駐車場は30台で、駐車場への道は幅が狭く急カーブのため、大型車は入れません。キャンピングカーや大きなミニバンで向かうと、入口で引き返すことになります。さらに紅葉シーズンは来訪者が集中し、渋滞対策として通行規制が行われる場合があります。紅葉の見ごろは例年11月中旬〜11月下旬なので、この時期に行くなら朝早い時間帯を選ぶのが賢明です。
| 名称 | 多良峡森林公園 |
| 所在地 | 岐阜県大垣市上石津町 |
| 見学時間 | 屋外のため自由 |
| 入園料 | 無料 |
| 駐車場 | あり(30台)※道が狭く急カーブのため大型車は進入不可 |
| 紅葉の見ごろ | 例年11月中旬〜11月下旬 |
季節で変わる上石津の表情|いつ行くのが正解か
史跡としての島津豊久碑は一年中いつでも見られますが、旅としての満足度は季節で変わります。春から初夏は新緑の街道筋が心地よく、日が長いぶん行程に余裕が生まれます。史跡めぐりを主目的にするなら、この時期が最も組みやすい季節です。
秋は多良峡の紅葉が加わり、史跡と景観の両方を楽しめます。ただし11月中旬〜下旬は来訪者が増え、通行規制がかかる場合があります。史跡を静かに見たい人は、紅葉ピークを外した10月や、12月初めを選ぶ手もあります。
冬は路面凍結のリスクがあり、装備が整っていない車には向きません。ただし訪問者が少なく、雪の残る坂道に立つと、四百年前のこの道を落ち延びていった人々の姿がより生々しく想像できます。装備さえ万全なら、冬こそこの史跡が最も印象深く見える季節かもしれません。
まとめ|島津豊久碑は、関ケ原が終わった後の物語を伝える場所
島津豊久碑は、関ケ原の合戦が「終わった後」に何が起きたのかを伝える、数少ない物証です。主戦場の陣跡をいくら回っても見えてこない部分が、この坂道には残っています。伯父を生かすために殿軍を引き受けた30歳の武将の判断が、烏頭坂という地形とセットで刻まれている場所です。
そして、この碑は退き口の通過点にすぎません。勝地峠、白拍子谷、そして島津塚。上石津の谷筋には、豊久の最期をめぐる複数の伝承が点々と残されています。どれか一つを正解とせず、四百年語り継がれてきた記憶の層としてたどると、この一帯の歩き方がまるで変わってきます。
最初の一歩としておすすめしたいのは、岐阜関ケ原古戦場記念館で合戦の全体像をつかんでから、国道365号を南下して烏頭坂へ向かうルートです。記念館の駐車場は普通自動車100台と余裕があり、観覧料も一般500円。ここで西軍布陣地の中央にいた島津隊の位置を頭に入れてから碑の前に立つと、あの突破がどれほど無謀だったかが実感として伝わってきます。
訪ねる前に確認しておきたいのは、曜日と季節の2点です。記念館は月曜休館、上石津郷土資料館は火曜休館。入館受付はどちらも16:30で終わります。冬季は坂道の凍結対策が必須で、秋は日没が早まります。この2点さえ押さえておけば、あとは国道365号を南下するだけで、退き口の道は自然につながっていきます。
関ケ原を何度も訪れている人ほど、この南の谷筋を知らないまま帰っていきます。次の関ケ原旅では、主戦場を一通り見た後に、少しだけ南へハンドルを切ってみてください。石碑ひとつと坂道ひとつが、あの合戦の見え方を静かに書き換えてくれます。
※各施設の料金・開館時間・休館日は変更される場合があります。おでかけ前に公式サイトで最新情報をご確認ください。

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