関ヶ原の古戦場を訪ねようと調べていると、必ず名前が出てくるのに、いざ現地に着くと「あれ、どこにあるの?」と探してしまう史跡があります。それが松平忠吉・井伊直政陣跡です。笹尾山や決戦地のように広い駐車場と大きな案内板があるわけではなく、朱色の門をくぐった境内の片隅に、ぽつんと石碑が立っているだけ。うっかりすると、隣の東首塚だけ見て帰ってしまいます。
結論から言えば、この陣跡はJR関ケ原駅から徒歩3分、入場無料で誰でも見学できる場所でありながら、関ヶ原の戦いが「始まった」まさにその地点です。慶長5年(1600年)9月15日の午前8時頃、ここに布陣していた井伊直政と松平忠吉の隊が宇喜多隊に向けて鉄砲を放ち、東西合わせて約15万人が激突する戦いの火蓋が切られました。石碑1本の場所ですが、関ヶ原という物語の「1ページ目」に立てる場所なのです。
この記事では、陣跡の正確な場所と行き方、なぜこの2人がここに陣を張ったのかという背景、そして戦後わずか数年で相次いで世を去った2人のその後まで、地元を何度も歩いてきた目線で整理しました。あわせて、陣跡を起点にして徒歩とレンタサイクルで巡る半日コース、駐車場5台という落とし穴、月曜に行くと後悔する理由まで、実際に旅の予定を組むために必要な情報を全部入れています。
・松平忠吉・井伊直政陣跡の正確な場所とアクセス(JR関ケ原駅から徒歩3分・入場無料)
・なぜここで関ヶ原の戦いが始まったのか、開戦の経緯と「井伊の赤備え」の正体
・陣跡を起点に徒歩で巡る半日モデルコースと、各陣跡の駐車場台数の比較
・駐車場5台・記念館の月曜休館など、現地で困らないための注意点
松平忠吉・井伊直政陣跡はどこにある?|駅から徒歩3分、東首塚の境内に立つ石碑

朱色の門をくぐった先、境内の東隅にひっそりと立っている
松平忠吉・井伊直政陣跡の所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原908-3。JR関ケ原駅から北へ歩いて3分、国道21号を渡ってすぐの場所にあります。ここで多くの人がつまずくのが、この住所が「東首塚」とまったく同じだということです。陣跡は独立した公園や敷地ではなく、東首塚の境内の東隅に立っています。朱色の大きな門を目印にしてください。門をくぐると正面にスダジイの大木が茂った塚があり、その手前側、東の隅に「松平忠吉 井伊直政陣跡」と刻まれた石碑が据えられています。
行き方としては、駅の北口を出て正面の道をまっすぐ北上し、国道21号にぶつかったら左手を見ると朱色の門が見えます。歩道が整備されているので、スーツケースを転がしていても問題ありません。関ヶ原の史跡めぐりを電車旅で始めるなら、この陣跡が事実上の「1か所目」になります。駅を降りて3分で戦国史跡に立てるという密度は、全国的に見てもかなり珍しい環境です。
注意したいのは、看板が控えめで、他の史跡のような大きな幟や解説パネル群がないこと。史跡めぐりのつもりで来た人でも「東首塚を見た」で終わってしまうケースが多いので、門をくぐったら必ず境内の東側を確認してください。石碑の周囲は玉砂利敷きで、雨上がりでも足元は歩きやすくなっています。
入場無料・見学自由だから、朝いちばんの空白時間に組み込める
陣跡も東首塚も入場無料で、開門・閉門の時刻が設けられているタイプの施設ではありません。つまり、岐阜関ケ原古戦場記念館が開く9時30分より前の時間帯を、この陣跡と東首塚の見学に充てられます。名古屋方面から朝いちばんのJR東海道本線でやってきて、記念館が開くまでの30分で陣跡と東首塚を見ておく——この組み立てが、関ヶ原を1日で回るときのいちばん効率的な出だしです。
ドライブ旅の場合も同じで、朝の到着直後は駐車場が空いています。逆に、昼前後は記念館の駐車場に車が集中するため、陣跡周辺の路上も落ち着かなくなります。写真を撮りたいなら午前中の早い時間が有利で、東向きに立つ石碑は朝の光が正面から当たります。
デメリットもあります。無料の史跡なので、トイレや自動販売機といった設備はこの場所自体には期待できません。飲み物やトイレは、駅前の関ケ原駅前観光交流館「いざ!関ケ原」(3月〜11月は9:00〜17:00、12月〜2月は9:00〜16:30/火曜日・祝祭日の翌日休み)で先に済ませておくのが実務的です。冬場の関ヶ原は雪が積もることもあり、境内の玉砂利が凍る日もあります。スニーカーではなく、滑りにくい靴を選んでください。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原908-3 |
| 見学時間 | 見学自由 |
| 休み | なし |
| 料金 | 入場無料 |
| 駐車場 | あり(5台・無料) |
| 問い合わせ | 0584-43-1600(関ケ原観光協会) |
| アクセス | JR関ケ原駅から徒歩3分/名神高速道路 関ヶ原ICから約1.2km |
| 参考サイト | 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会) |
実はこの石碑、もとの場所から約200m引っ越している
意外と知られていないのですが、いま石碑が立っている場所は、井伊直政と松平忠吉が実際に陣を敷いた地点そのものではありません。もとの陣跡は現在地より東へ約200mほどの位置にあり、大正時代に現在の東首塚境内へ移されました。つまり私たちが手を合わせている石碑は、位置としては「約200mずれた記念碑」ということになります。
これを知ると興ざめかというと、まったく逆です。200m東というのは、関ヶ原の地形でいえば東軍の最前線がさらに敵方へ食い込んでいたことを意味します。石碑の前に立ち、そこから東を向いて200m先を想像すると、井伊隊と松平隊がいかに前へ出ていたかが体感できます。徳川の主力である家康本隊がまだ桃配山にいた時間帯に、家康の四男とその舅が最前線にいた——この距離感こそが、開戦のいきさつを理解する鍵になります。
史跡めぐりでは「碑がある場所=当時の場所」と思い込みがちですが、関ヶ原に限らず、明治から大正にかけて整備された史跡碑は移設されているものが少なくありません。案内板の記述を読み込んでから現地を眺めると、平坦な田園風景の見え方が変わってきます。時間に余裕があれば、石碑の前で東を向いて数分立ち止まってみてください。
陣跡の石碑には「松平忠吉」「井伊直政」の順で名が並びます。石高でも官位でも直政が上に見えますが、忠吉は徳川家康の四男。直政は忠吉の舅であり後見役という立場だったため、この並び順になっています。石碑の刻字の順番ひとつに、当時の力関係が刻まれているわけです。
午前8時、ここから15万人の戦いが動き出した
先鋒は福島正則のはずだった|「物見」を装った抜け駆け
関ヶ原の戦いの当日、東軍の先鋒を務めるのは福島正則と決まっていました。豊臣恩顧の大名として西軍に対峙する象徴でもあり、正則自身も先陣の名誉に強くこだわっていたとされます。ところが実際に最初の銃声を響かせたのは、この陣跡に布陣していた井伊直政と松平忠吉の隊でした。
直政は、松平忠吉に初陣の功を立てさせたいという思いから、福島隊の先鋒担当者が制止しようとするのを振り切って前進し、午前8時頃に宇喜多隊へ発砲します。これが関ヶ原の開戦の合図となりました。抜け駆けと言えば抜け駆けですが、徳川家の武将が最初の一発を放ったという事実は、この戦いの主導権が誰にあるかを内外に示す政治的な意味も持っていました。
現地でこの話を思い出すなら、石碑の前が絶好の場所です。関ヶ原盆地は東西に細長く、この地点から西を向くと、宇喜多隊が布陣していた方向に視線が抜けます。当日は霧が深かったと伝わり、視界は数十メートル程度だったとも言われます。晴れた日に立つと開けた田園ですが、霧の朝に訪れると当日の不安な視界に近い光景に出会えます。
井伊の赤備え|武田の遺風を継いだ、赤一色の精鋭部隊
井伊直政の部隊は、武具を赤一色で統一した「井伊の赤備え」として知られます。甲冑も旗指物も槍の柄も赤。戦場で敵から見れば、赤い塊が動いてくるように見えたはずです。この赤備えは井伊家のオリジナルではなく、武田家滅亡後にその遺風を受け継いだものとされています。武田の赤備えといえば各地で恐れられた部隊で、その名残を徳川家中で引き継いだのが直政でした。
この背景を知っていると、陣跡に立ったときの想像の解像度が上がります。午前8時、霧の中を赤い一団が前へ出ていく。敵にとっては「あれは武田の赤か」という心理的な圧力を伴う進軍だったわけです。装備を統一するというのは、当時としてはコストのかかる話で、それだけ徳川家が直政に投資していたとも読めます。
赤備えの実物イメージを掴みたいなら、徒歩10分の岐阜関ケ原古戦場記念館(一般500円)の展示を組み合わせるのが早道です。逆に、事前情報ゼロで陣跡だけを訪れると、石碑1本を見て「以上」で終わってしまいます。史跡碑は情報密度が低いぶん、予習が体験の質を決めます。この記事をここまで読んだ状態で現地に立てば、同じ石碑がまったく違って見えるはずです。
20歳の松平忠吉、初陣を舅が後見した理由
松平忠吉は天正8年9月10日(1580年10月18日)生まれ。関ヶ原の年には数え年で21歳、そしてこれが初陣でした。徳川家康の四男という立場でありながら実戦経験がなく、天下分け目の大戦がデビュー戦になったわけです。その後見役を務めたのが、忠吉の舅にあたる井伊直政でした。
後見といっても、後方で見守るという意味ではありません。直政は忠吉を最前線に連れ出し、開戦の一発を放たせ、終盤の追撃戦でも共に戦っています。武功をどう積ませるかまで設計された初陣であり、徳川家にとって「四男に戦歴を持たせる」ことがどれほど重要だったかがうかがえます。忠吉はこの戦いで島津豊久を討ち取るなどの功を挙げました。
現代の感覚に置き換えるなら、経験ゼロの20歳を最重要案件の最前線に立たせ、実績を作らせるための布陣です。うまくいけば大きな箔がつき、失敗すれば命がない。史跡碑の前で「20歳の初陣」という一点だけでも思い出しておくと、平坦な関ヶ原の風景に人の顔が浮かんできます。
終盤の島津追撃で、二人とも銃弾に倒れた
この陣跡が「開戦の地」であると同時に語られるべきなのが、戦いの終盤です。小早川秀秋の寝返りで西軍が総崩れになったあと、西軍の中央に取り残された島津義弘の隊は、退却ではなく東軍の正面を突っ切るという常識外れの突破を選びます。これが「島津の退き口」と呼ばれる場面です。
直政と忠吉はこの島津隊を追撃し、大きな戦果を挙げました。忠吉は島津豊久を討ち取ったと伝わります。しかしその代償は小さくありませんでした。追撃の最中に二人とも銃撃を受けて負傷し、特に直政の傷は深く、落馬するほどの重傷だったとされています。開戦の一発を放った者たちが、最後の局面でも最前線にいて、そこで傷を負った——この対称性が、陣跡の物語を締めくくります。
島津隊はわずか800名程度の少数部隊でした。数のうえでは圧倒していた東軍が、この小部隊に決定的な傷を負わされている点は、関ヶ原の勝敗表だけを見ていると見落としがちな事実です。追撃のルートは陣跡から南西方向へ抜けていきます。時間があれば、島津義弘陣跡(後述)まで足を運んで、逆向きに視線をたどってみてください。
📜 歴史メモ
慶長5年9月15日(1600年)、関ヶ原には東西合わせて約15万人が集結しました。開戦は午前8時頃、井伊直政・松平忠吉隊の宇喜多隊への発砲から。そして正午前後には小早川秀秋の寝返りで大勢が決します。天下分け目と言われる戦いは、実質半日ほどで決着したことになります。この陣跡は、その半日の「最初」と「最後」の両方に関わった場所です。
石碑の背中合わせにある東首塚を、素通りしてはいけない

スダジイの大木が覆う塚は、家康が命じた埋葬の地
陣跡の石碑と同じ境内にあるのが東首塚です。所在地も同じ岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原908-3、入場無料で見学できます。合戦の翌日、徳川家康は戦死者の埋葬を命じ、遺体は東西2か所に葬られました。そのうちの一つが、この東首塚です。竹中重門の命によって整備されたと伝わります。
境内に入ると、朱色の唐門の先にスダジイの大木が枝を広げ、その下に塚が守られています。夏でも木陰が濃く、真夏の関ヶ原歩きでは貴重な涼み処になります。首塚と聞くと身構える人もいますが、実際に立ってみると想像よりずっと静かで、地元の人が日常的に手を合わせていく場所という印象です。
訪問時のマナーとして、塚そのものは墓所です。三脚を立てての撮影や、塚に上がる行為は避けてください。所要時間は陣跡とあわせて15分ほど。駅から徒歩3分という近さもあり、電車の待ち時間に立ち寄ることもできます。ただし夕方以降は境内が暗くなり、足元が見えにくくなります。日没前の見学をおすすめします。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原908-3 |
| 見学時間 | 見学自由 |
| 料金 | 入場無料 |
| 駐車場 | あり |
| アクセス | JR関ケ原駅より北に徒歩3分 |
| 参考サイト | 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会) |
昭和6年指定の国史跡|「関ヶ原古戦場」という大きな指定の一部
東首塚は昭和6年3月30日に国の史跡に指定されています。ここで押さえておきたいのは、指定名称が「関ヶ原古戦場」という広い枠で、そこに徳川家康最初陣地・徳川家康最後陣地・石田三成陣地・岡山烽火場・大谷吉隆墓・東首塚・西首塚といった個別の地点が附(つけたり)として含まれているという構造です。
つまり関ヶ原は、点として散らばる史跡をひとまとめに「戦場全体」として保護している、全国的にも珍しい指定のされ方をしています。この視点を持って歩くと、田んぼも道路も、指定の内側にある風景として見えてきます。「石碑のあるところだけが史跡」ではないわけです。
注意点として、指定されているからといって各地点が同じように整備されているわけではありません。笹尾山のように駐車場と説明板が揃った場所もあれば、この陣跡のように石碑1本の場所もあります。整備度の差を知らずに「見応えのある史跡」だけを期待して行くと肩透かしを食らいます。逆に、事前に構造を理解しておけば、石碑1本の場所こそ面白くなります。
徒歩圏の関ケ原町歴史民俗学習館は入館無料の穴場
陣跡から徒歩数分の場所にあるのが関ケ原町歴史民俗学習館です。開館時間は9:30〜17:00(入館は16:30まで)、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は翌日)と12月29日〜1月3日。入館料は無料です。2020年10月21日に、それまでの関ケ原町歴史民俗資料館から改称して開館しました。
ここが面白いのは、関ヶ原の戦い「以外」の関ケ原町の歴史を扱っている点です。壬申の乱、中山道、玉の火薬庫といったテーマの展示があり、体験展示室では地域に残る民具に実際に触れることもできます。合戦一色になりがちな関ヶ原旅に、土地そのものの厚みを足してくれる施設です。無料なので、雨に降られたときの避難先としても頼りになります。
使い分けとしては、合戦の全体像を掴みたいなら岐阜関ケ原古戦場記念館、この土地が古代から交通と軍事の要衝だった理由を知りたいなら学習館、という整理になります。両方とも月曜休館なので、月曜に関ヶ原へ行く場合は屋内施設が軒並み閉まると考えておいてください。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28 |
| 電話番号 | 0584-43-2665 |
| 開館時間 | 9:30〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日〜1月3日 |
| 入館料 | 無料 |
| 駐車場 | あり |
| 参考サイト | 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会) |
勝者だったはずの二人が、なぜ相次いで早世したのか
井伊直政|佐和山18万石、そして2年後の死
関ヶ原の戦後、井伊直政は石田三成の旧領である近江・佐和山18万石を与えられ、佐和山藩の初代藩主となりました。敵の総大将格の本拠地をそのまま任されるという処遇は、直政への信頼の厚さを物語ります。実際、直政は戦後処理でも交渉役として動き、徳川政権の骨格づくりに関わりました。
しかし、関ヶ原で受けた鉄砲傷は癒えませんでした。慶長7年(1602年)、直政はその傷が元で死去します。享年42。戦いから、わずか2年後のことでした。当時の火縄銃による傷は、弾が抜けても化膿が止まらず、長く体を蝕むことがあったとされます。天下分け目の戦いで最大級の武功を挙げながら、新しい時代をほとんど生きられなかったわけです。
陣跡の石碑の前でこの事実を思い出すと、「開戦の一発」の重みが変わります。抜け駆けしてまで前へ出た結果として直政が得たものは、佐和山18万石という報酬と、命を削る傷でした。歴史好きの一人旅なら、この陣跡と、後の井伊家の居城である彦根城をセットで巡る行程を組むと、物語が一本につながります。関ケ原駅からJR東海道本線で彦根方面へは電車移動が可能な範囲です。
松平忠吉|清洲52万石、28歳で途絶えた家康四男の家
松平忠吉も、戦後の論功行賞で尾張国および美濃国に52万石を与えられ、清洲城に入りました。20歳そこそこで52万石という破格の扱いは、初陣の武功と、何より徳川家康の四男という血筋によるものです。関ヶ原の陣跡に立っていた青年が、東海道の要衝を任される大大名になったわけです。
ところが忠吉もまた長くは生きられませんでした。戦後は病に悩まされ、慶長9年(1604年)に湯治へ向かい、翌年には腫物を患い、慶長11年(1606年)も知多郡で湯治を続けたものの回復しません。そして慶長12年3月5日(1607年4月1日)、江戸で家康・秀忠と面会した数日後に死去しました。享年28。関ヶ原からわずか7年後のことです。
開戦の一発を放った2人が、どちらも戦いから10年以内に世を去っている——この事実は、関ヶ原を「勝った側・負けた側」という単純な二分法で見ることの浅さを教えてくれます。石碑に刻まれた2つの名前を、勝者の記念碑としてだけでなく、短い生涯を駆け抜けた2人の記録として眺めてみてください。
石碑2つの名前を、時系列で読み解くという楽しみ方
関ヶ原の史跡は数が多く、初めて訪れる人は「とりあえず有名どころを回る」になりがちです。ですが陣跡めぐりは、地理順ではなく時系列順に歩くと、圧倒的に面白くなります。松平忠吉・井伊直政陣跡は午前8時、徳川家康最後陣跡は正午前後、決戦地は正午過ぎ、という具合に、それぞれの場所に「時刻」が紐づいているからです。
おすすめは、陣跡の石碑の前でスマートフォンの時計を見て、「いまが午前8時だとしたら」と仮定して歩き出すこと。徒歩10分で家康最後陣跡に着けば、それが本陣移動の距離感になります。史跡碑をただ並んで見るのではなく、半日で決着した戦いの時間軸に自分の歩行時間を重ねる。これが関ヶ原という土地でしかできない体験です。
逆に、この視点がないまま真夏の炎天下で史跡を数珠つなぎに回ると、単なる暑い散歩になります。関ヶ原は日陰が少ない田園地帯で、夏場の徒歩めぐりは体力を削られます。時系列で3〜4か所に絞り、記念館の展示で全体像を補うという組み立てが現実的です。
陣跡を起点に歩く、関ヶ原半日モデルコース
まずは徒歩10分の徳川家康最後陣跡(陣場野公園)へ
陣跡と東首塚を見終えたら、次に向かうのは徳川家康最後陣跡です。所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2、JR関ケ原駅から徒歩10分、入場無料。現在は陣場野公園として整備されており、国指定史跡になっています。合戦当日、家康は苦戦にいら立ち、桃配山の本陣を関ヶ原の中央部——三成本陣の笹尾山のすぐ下まで移動させました。その移動先がここです。
この場所は「床几場」とも呼ばれ、戦後の首実検が行われた場所として伝わります。開戦の地から本陣移動の地へ、徒歩10分。この10分が、家康が戦況にしびれを切らして前進した距離だと思うと、平坦な公園の景色に緊張感が生まれます。松尾山の小早川秀秋へ砲撃を命じたのもこの地点からだと伝わります。
注意点は駐車場です。この史跡自体には駐車場がありません。車で回る場合は、近隣の岐阜関ケ原古戦場記念館の駐車場(南70台・北30台、無料)を使うことになります。逆に言えば、記念館に車を置いてしまえば、陣跡・東首塚・家康最後陣跡は全部歩ける範囲に収まります。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2 |
| 見学時間 | 見学自由 |
| 料金 | 入場無料 |
| 駐車場 | なし(岐阜関ケ原古戦場記念館の駐車場を利用) |
| アクセス | JR関ケ原駅より徒歩10分 |
| 参考サイト | 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会) |
決戦地は、田園のど真ん中にぽつんと立っている
次は決戦地。所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202、JR関ケ原駅から北へ徒歩20分、入場無料です。小早川秀秋の寝返りによって西軍が崩れたあと、東軍の諸隊が石田三成の首級を狙って最大級の激戦を繰り広げたとされる場所で、大きな石碑と、徳川家・石田家の家紋が入った旗が立てられています。
ここは現在、周囲を田園に囲まれた静かな場所です。派手な施設は何もありません。だからこそ、旗がはためく音と風の音しか聞こえない中で石碑の前に立つと、「ここで最も多くの人が倒れた」という事実が、妙に生々しく迫ってきます。写真映えを狙うなら、稲穂が黄金色になる9月下旬前後が旗の朱色とよく合います。
アクセス上の注意として、決戦地自体には駐車場がありません。笹尾山・石田三成陣跡の駐車場を利用し、そこから徒歩3分で歩くのが正規ルートです。農道が入り組んでいるため、カーナビ任せで細い道に入り込むと、離合できずに難儀します。笹尾山の駐車場を目的地に設定してください。
関ヶ原に散らばる陣跡の位置関係を先に頭に入れておくと、現地での動きが一段とスムーズになります。東西両軍がどこに布陣していたのかを俯瞰したい方は、こちらもあわせてどうぞ。

「関ヶ原の戦い布陣図を見ると西軍のほうが有利そうなのに、なぜ負けたの?」——歴史好きなら誰もが一度は抱く疑問です。教科書に載っている布陣図は、東軍を三方から囲む…
笹尾山・石田三成陣跡で、戦場の全体像を上から確かめる
決戦地から徒歩3分の笹尾山・石田三成陣跡は、所在地が岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4008、JR関ケ原駅から北へ徒歩20分、入場無料、駐車場20台。決戦地の北西に位置する小山で、敵の防御用の竹矢来・馬防柵が復元されています。石田三成が島左近とともに布陣したとされる場所です。昭和6年に国の史跡に指定されました。
ここの価値は、標高差にあります。山頂まで登ると古戦場の全域が見渡せるため、それまで歩いてきた陣跡・東首塚・家康最後陣跡・決戦地の位置関係が、一枚の絵として理解できます。平地の史跡碑をいくら回っても掴めなかった全体像が、5分ほどの登りで手に入るわけです。関ヶ原を初めて歩くなら、ここを最後に持ってくる順番を強くおすすめします。
登り道は階段と坂で、ベビーカーには不向きです。小さな子ども連れの場合は、麓の駐車場周辺で復元された馬防柵を見るだけでも雰囲気は伝わります。駐車場は20台なので、桜の季節や大河ドラマの関連放送があった年の週末は満車になりやすい規模です。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4008 |
| 見学時間 | 見学自由 |
| 料金 | 入場無料 |
| 駐車場 | あり(20台) |
| アクセス | JR関ケ原駅から北へ徒歩20分 |
| 参考サイト | 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会) |
島津義弘陣跡まで足を伸ばして、退き口の起点に立つ
時間と体力に余裕があるなら、島津義弘陣跡へ。所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1869-3、JR関ケ原駅から北西に徒歩15分、入場無料、駐車場4台です。笹尾山・石田三成陣跡から南へ約800m下ったあたりで、現在は神明神社の森が広がっています。神社の裏手に陣所跡の碑があります。
ここに立つ意味は、松平忠吉・井伊直政陣跡とセットにすると一気に増します。この森から、島津隊約800名が東軍の正面へ突っ込み、それを直政と忠吉が追撃した。その追撃の中で二人は撃たれ、直政は2年後に命を落としました。開戦の地と、直政の運命を決めた突破の起点。この2か所を同じ日に歩けるのが関ヶ原という土地です。
注意点は駐車場が4台しかないことと、神社の境内であるため静粛が求められること。地元の方の生活圏でもあるので、路上駐車は絶対に避けてください。神社の森は木立が濃く、夕方は暗くなります。夏でも虫よけを持っておくと安心です。
| 所在地 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1869-3 |
| 見学時間 | 見学自由 |
| 料金 | 入場無料 |
| 駐車場 | あり(4台) |
| アクセス | JR関ケ原駅より北西に徒歩15分 |
| 参考サイト | 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会) |
各スポットの駅からの距離と駐車場を並べると、車と徒歩のどちらで回るべきかが見えてきます(ぎふ旅手帖調べ・2026年8月時点)。
| スポット | 関ケ原駅から | 駐車場 | 料金 |
|---|---|---|---|
| 松平忠吉・井伊直政陣跡 | 徒歩3分 | 5台 | 無料 |
| 東首塚 | 徒歩3分 | あり | 無料 |
| 徳川家康最後陣跡 | 徒歩10分 | なし | 無料 |
| 決戦地 | 徒歩20分 | なし | 無料 |
| 笹尾山・石田三成陣跡 | 徒歩20分 | 20台 | 無料 |
| 島津義弘陣跡 | 徒歩15分 | 4台 | 無料 |
| 岐阜関ケ原古戦場記念館 | 徒歩10分 | 南70台・北30台 | 一般500円 |
車と電車、どちらが正解?松平忠吉・井伊直政陣跡へのアクセス徹底比較
車|関ヶ原ICから約1.2km、ただし陣跡の駐車場は5台だけ
車で向かう場合、名神高速道路の関ヶ原ICから約1.2kmと、高速を降りてすぐの立地です。ICから国道365号・国道21号を経由して数分。ドライブ旅の途中に組み込むハードルは非常に低く、「高速を降りて15分で戦国史跡を見て、また高速に戻る」という使い方すらできます。
問題は駐車場です。陣跡(東首塚)の駐車場は5台・無料。関ヶ原の観光シーズンや大型連休には、この5台はすぐ埋まります。満車だった場合の第2候補として、岐阜関ケ原古戦場記念館の南駐車場70台・北駐車場30台(いずれも無料)を押さえておいてください。記念館から陣跡までは徒歩圏で、むしろ最初から記念館に停めて歩くほうがストレスがありません。
もう一点、冬季の注意があります。関ヶ原は伊吹山からの吹き下ろしで、岐阜県内でも積雪が多いエリアです。名神高速が雪で速度規制されることも珍しくありません。12月〜2月に車で訪れるなら、冬タイヤは前提として考えてください。
よくある失敗が「陣跡の駐車場5台を当てにして行き、満車で行き場を失う」パターンです。原因は、陣跡が駅前の市街地にあり、周辺に代替のコインパーキングがほとんどないこと。対策はシンプルで、最初から岐阜関ケ原古戦場記念館(南70台・北30台、無料)に停めて、陣跡・東首塚・家康最後陣跡を徒歩で回ること。記念館は月曜休館ですが、駐車場だけを目当てにするのではなく、開館日に合わせて訪問日を組むのが確実です。
電車|JR関ケ原駅から徒歩3分という圧倒的な近さ
電車派にとって、この陣跡は関ヶ原でもっとも敷居の低い史跡です。JR東海道本線の関ケ原駅から徒歩3分。名古屋方面からも米原方面からも普通列車でアクセスでき、乗り換えなしで到着できます。駅前には関ケ原駅前観光交流館「いざ!関ケ原」があり、コインロッカー(大300円・中200円・小100円)に荷物を預けてから歩き出せます。
電車のメリットは、駐車場問題から解放されることと、笹尾山まで歩いたあとに駅へ戻る一方通行の動線が組めることです。車だと「駐車した場所へ戻る」制約がつきまといますが、電車なら片道で歩き切れます。関ヶ原の史跡は駅の北側に集中しているので、徒歩めぐりとの相性は良好です。
デメリットは本数です。ローカル区間のため、乗り遅れると次まで待つ時間が長くなります。帰りの列車時刻を先に確認して、そこから逆算して見学時間を割り振ってください。また、駅から笹尾山まで徒歩20分の道は日陰がほとんどありません。真夏は飲み物を2本持って出るくらいでちょうどいい環境です。
レンタサイクル|半日660円で、徒歩の倍の範囲をカバーできる
関ヶ原の史跡が散らばっているという弱点を、いちばんきれいに埋めてくれるのがレンタサイクルです。貸出場所は関ケ原駅前観光交流館と岐阜関ケ原古戦場記念館の2か所。料金は普通自転車が半日(4時間以内)660円、1日1,210円。電動アシスト付きは半日1,210円、1日2,310円です。
使い分けの目安として、陣跡・東首塚・家康最後陣跡・決戦地・笹尾山を回るだけなら普通自転車の半日660円で足ります。島津義弘陣跡や桃配山、松尾山方面まで広げるなら電動アシスト付きが有利です。関ヶ原は全体としてゆるやかな傾斜があり、笹尾山方向は上り基調になるため、体力に自信がない人ほど電動を選ぶ価値があります。
貸出時間には制約があります。駅前観光交流館は9:00〜16:30(冬季は9:00〜16:00)、記念館は9:30〜16:30。夕方の返却時刻が早めなので、午後3時に借りて丸ごと回るという計画は成立しません。午前中に借りるのが前提だと考えてください。交流館は火曜日と祝祭日の翌日が休みなので、火曜に訪れる場合は記念館側での貸出になります。
駅前の観光交流館は、レンタサイクルだけでなく史跡めぐりの相談や資料入手の拠点にもなります。関ヶ原歩きの起点として詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。

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誰と行くかで変わる、関ヶ原という土地の歩き方
一人旅|午前8時から正午までを、自分の足でなぞる
歴史好きの一人旅なら、時系列で歩く「関ヶ原の半日再現」がいちばん贅沢な使い方です。松平忠吉・井伊直政陣跡(午前8時・開戦)→ 徳川家康最後陣跡(正午前後・本陣移動)→ 決戦地(正午過ぎ・最激戦)→ 笹尾山(全体俯瞰)という順で、徒歩なら2〜3時間、レンタサイクルなら1時間半ほどの行程になります。
この歩き方の良さは、誰にも合わせなくていいこと。石碑の前で10分立ち尽くしても、案内板を全部読んでも、誰も急かしません。関ヶ原の史跡は解説板の文章量が多く、じっくり読むタイプの人ほど団体行動では消化不良を起こします。一人旅は、この土地の情報量と相性がいいのです。
注意点は、田園地帯を歩くため休憩できる店が少ないこと。駅前を離れると飲食店の選択肢が一気に減ります。飲み物と軽食は駅周辺で調達してから歩き出してください。また、笹尾山まで足を伸ばすと駅に戻るのに20分かかるので、帰りの列車時刻には30分の余裕を持たせておくと安心です。
家族連れ|中学生以下無料の記念館を軸に組み立てる
小学生・中学生を連れた家族旅行なら、岐阜関ケ原古戦場記念館を軸にするのが正解です。所在地は〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55、開館時間は9:30〜17:00(入館は16:30まで)、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)と12/29〜1/3。入館料は一般500円、高校生・大学生300円、中学生以下は無料です。20名以上の団体なら一般400円、高校生・大学生240円になります(企画展開催時は料金が変更される場合があります)。
大人2人+中学生以下の子ども2人なら1,000円で入館できる計算です。石碑だけを見せられても子どもは退屈しますが、映像や展示で合戦のスケールを掴んでから陣跡へ行けば、「ここから始まったんだ」という実感につながります。記念館→陣跡の順番のほうが、子ども連れには効果的です。
ベビーカーや小さな子どもがいる場合、笹尾山の登りは負担になります。その場合は記念館+陣跡+東首塚+家康最後陣跡という平地だけの構成にして、笹尾山は次回に回すのが現実的です。無料で入れる関ケ原町歴史民俗学習館には体験展示室があり、民具に実際に触れられるので、雨の日や暑さの厳しい日の逃げ場としても機能します。
関ヶ原の史跡は「石碑と説明板」が基本形で、建物や展示があるスポットはごく一部です。だからこそ、有料の記念館(一般500円)と無料の歴史民俗学習館という2つの屋内施設を、行程のどこに挟むかで満足度が変わります。おすすめは、屋外の陣跡めぐりを午前に済ませ、日差しが強くなる午後に屋内施設へ移る流れです。
カップル・ドライブ旅|桃配山まで足を伸ばして「1日の始まり」を見る
車で来たカップルやドライブ旅なら、陣跡めぐりに桃配山・徳川家康最初陣跡を加えると、物語がきれいに閉じます。所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字野上1424-1、国道21号の一ツ軒交差点より東へ200m、入場無料、駐車場8台。合戦の朝、家康が最初に本陣を置いた山です。
この山名の由来がまた面白いところで、壬申の乱の際に大海人皇子が兵に桃を配って戦に勝ったという伝承にちなむと伝わります。関ヶ原は1600年だけの土地ではなく、672年にも天下を分けた戦場だった——この二重構造を知ると、ドライブの会話が一段深くなります。
注意点は道路事情です。桃配山の駐車場は国道21号を挟んだ側にあるため、駐車後に国道を横断する必要があります。交通量の多い幹線道路なので、横断は必ず横断歩道で。また陣跡までは階段を2分ほど登るので、ヒールの靴では厳しくなります。ドライブ旅でも、履き替え用のスニーカーを積んでおくのが安全です。
訪問日を決める前に確認したい、休館日という落とし穴
関ヶ原旅で2つ目によくある失敗が、月曜に訪れて屋内施設が全滅するパターンです。岐阜関ケ原古戦場記念館は毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)が休館、関ケ原町歴史民俗学習館も毎週月曜日(祝日の場合は翌日)が休館。原因は、この2館の休館日がきれいに揃っていることにあります。
対策は2つ。1つは、そもそも月曜を避けること。もう1つは、月曜に行くなら屋外の陣跡めぐりに割り切ることです。陣跡・東首塚・家康最後陣跡・決戦地・笹尾山・島津義弘陣跡はすべて見学自由・入場無料なので、月曜でも問題なく回れます。ただし記念館の駐車場が使えるかは開館状況に左右されるため、車の場合は事前に電話(記念館 0584-47-6070)で確認しておくと確実です。
加えて、年末年始も要注意です。記念館は12/29〜1/3、学習館は12月29日〜1月3日が休みになります。関ケ原駅前観光交流館は火曜日と祝祭日の翌日が休み。3施設の休みが噛み合っていないので、「どこか1つは開いている」状態を作りたいなら、火曜・月曜を外した平日か、土日を選ぶのが無難です。
合戦の全体像を、武将像がずらりと並ぶ屋外施設で体感したい方には、こちらのスポットも関ヶ原旅の候補になります。

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まとめ|石碑1本の場所に、天下分け目の「はじまり」が立っている
関ヶ原の史跡めぐりというと、笹尾山や決戦地といった「絵になる場所」に目が行きがちです。けれど松平忠吉・井伊直政陣跡は、東首塚の境内に立つ石碑1本という控えめな姿でありながら、関ヶ原という物語の最初の1行が刻まれた場所です。午前8時、20歳の松平忠吉と、その舅である井伊直政の赤備えが前へ出て、鉄砲を放った。そこから約15万人の戦いが動き出しました。
そして同じ2人が、戦いの終盤に島津隊を追撃し、そこで銃弾を受けています。直政は2年後の慶長7年(1602年)に42歳で、忠吉は慶長12年(1607年)に28歳で世を去りました。勝った側の中心にいた2人が、新しい時代をほとんど生きられなかった——石碑に並ぶ2つの名前を、その事実とともに眺めてみてください。同じ景色がまったく違って見えるはずです。
要点を整理しておきます。
📝 ポイントまとめ
- 陣跡の所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原908-3。東首塚の境内東隅に石碑が立つ
- JR関ケ原駅から徒歩3分、名神高速 関ヶ原ICから約1.2km。入場無料・見学自由
- 陣跡の駐車場は5台のみ。満車時は岐阜関ケ原古戦場記念館の無料駐車場(南70台・北30台)へ
- 石碑はもと現在地より東へ約200mの位置にあり、大正時代に移設された
- 徒歩10分の徳川家康最後陣跡、徒歩20分の決戦地・笹尾山と時系列でつなぐと理解が深まる
- レンタサイクルは普通自転車が半日660円・1日1,210円、電動アシスト付きが半日1,210円・1日2,310円
- 岐阜関ケ原古戦場記念館は一般500円・中学生以下無料、関ケ原町歴史民俗学習館は入館無料。どちらも月曜休館
最初の一歩としておすすめしたいのは、次に関ヶ原へ行く日をカレンダーで決めるとき、月曜と火曜を外すことです。それだけで記念館・歴史民俗学習館・駅前観光交流館の3施設が同時に使える日になり、屋内で全体像を掴んでから屋外の陣跡へ出るという理想の順番が組めます。そして当日、駅を降りたらまず北へ3分。朱色の門をくぐって境内の東隅を見てください。そこが、天下分け目の午前8時が始まった場所です。
※掲載している料金・営業時間・休館日は2026年8月時点の情報です。最新情報は各施設の公式サイトでご確認ください。

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