犬山城の城主は成瀬家9代|信長の叔父が築き徳川の付家老が守った国宝天守の物語

「犬山城の城主って、結局だれだったの?」——木曽川のほとりにそびえる国宝天守を前に、そんな疑問がふと湧いてくる方は少なくありません。織田信長ゆかりの城として名前は知っていても、実際に誰が築き、誰が守り抜いたのかまで語れる人は意外と多くないものです。

結論から言えば、江戸時代を通じて犬山城の城主を務めたのは、尾張徳川家の付家老・成瀬家。初代の成瀬正成から幕末の正肥まで、じつに9代にわたって同じ一族が城を守り続けました。しかも2004年まで「個人が所有する国宝の城」という全国でも珍しい存在で、その所有者こそ成瀬家の末裔だったのです。

この記事では、岐阜側からもすぐ訪ねられる犬山城について、築城した戦国の城主たちから、成瀬家9代の歩み、そして現代までを「地元案内人」の目線で丁寧にたどります。歴史の流れがつかめると、天守に登ったときの景色がまるで違って見えてきます。あわせて2026年3月に改定された入場料や、混雑を避けるアクセスのコツまでまとめました。

📌 この記事でわかること

  • 犬山城の城主が「成瀬家9代」に落ち着くまでの戦国史
  • 初代・成瀬正成が城を拝領できた本当の理由と「付家老」という立場
  • 成瀬家9代それぞれの事績と、幕末〜現代への流れ
  • 2026年3月改定の入場料・アクセス・混雑回避まで実践情報
目次

犬山城の城主を一枚で理解する|成瀬家9代と天守の歩み

細かい年号に入る前に、まずは全体像を3分で押さえておきましょう。「犬山城城主」を調べると必ず登場するのが成瀬家ですが、その前後には戦国武将から近代の財団まで、いくつもの主役が入れ替わっています。ここを整理しておくと、あとの話が驚くほどスッと入ってきます。

江戸期の城主は尾張徳川家の付家老・成瀬家9代

犬山城の城主として最も長く、そして安定して城を治めたのが成瀬家です。元和3年(1617年)に初代・成瀬正成が2代将軍・徳川秀忠から犬山城を拝領して以来、二代正虎、三代正親……と続き、幕末の九代正肥まで9代・約250年にわたって同じ一族が城主を務めました。成瀬家は尾張徳川家に仕える「付家老」で、知行高は3万5000石。単なる家臣でも独立した大名でもない、少し特殊な立場でした。この付家老という肩書きこそ、犬山城の歴史を読み解く鍵になります。

旅の予備知識としては、「江戸時代の犬山城=成瀬家の城」とだけ覚えておけば十分。天守内に掲げられた歴代城主の肖像や資料を見るとき、9人の顔ぶれが頭に入っているだけで、展示の面白さが何倍にもなります。ただし成瀬家が入る前にも城主は何人もいたので、そこは次の見出しで補足します。

成瀬家の前は誰が守った?信長の叔父から池田恒興まで

成瀬家より前、戦国時代の犬山城主はめまぐるしく交代しています。城の始まりは天文6年(1537年)、織田信長の叔父にあたる織田信康が、近くの木之下城を現在地に移して築いたと伝わります。その後、天文16年(1547年)には信長の重臣・池田恒興が入城。さらに信長の子・織田信雄の家臣が入るなど、木曽川を押さえる軍事の要衝として、有力武将が次々に城主となりました。

戦国期の城主が短期間で入れ替わったのは、この城が尾張と美濃(現在の岐阜県側)の境目に位置し、川を渡れば敵地という緊張感の中にあったからです。旅で訪ねると、天守から木曽川越しに岐阜側の平野が一望でき、「なるほど、ここは奪い合う価値があった」と体感できます。歴史好きなら、この地形の妙こそ最大の見どころと言ってよいでしょう。

実は「大名の城」ではなかった|逆張りで見る犬山城

意外と知られていないのですが、江戸時代の犬山城は厳密には「大名の城」ではありませんでした。城主の成瀬家は尾張徳川家の付家老であり、格式としては家臣の一員。独立した藩として認められたのは、幕末の慶応4年(1868年)になってからです。つまり260年以上のあいだ、犬山城は「大名ではない城主が守る、事実上の小さな城下町」という珍しい形で存続していたのです。

この事実を知っておくと、城下町の規模感にも納得がいきます。数十万石の大大名の城下町に比べれば犬山は小ぶりですが、そのぶん町並みが凝縮され、天守から城下まで徒歩で完結する“歩ける城下町”になっています。歴史の背景を知ってから歩くと、コンパクトさそのものが魅力に変わります。

城主めぐりの前に押さえる基本データ

歴史散策に出かける前に、犬山城の基本情報を確認しておきましょう。入場料は2026年3月1日の改定で大人1,000円(改定前550円)となり、開城は朝9時から夕方5時まで(入場は16時30分まで)です。岐阜方面からは中央道・小牧東ICから車で約25分、木曽川を渡ればすぐという近さで、飛騨や岐阜市からのドライブ旅にも組み込みやすい立地です。

📍 国宝犬山城

住所 愛知県犬山市犬山北古券65-2
電話番号 0568-61-1711(犬山城管理事務所)
開城時間 9:00〜17:00(入場は16:30まで)
休城日 12月29日〜31日
入場料 大人1,000円/小中学生200円/幼児無料(2026年3月1日改定)
駐車場 周辺市営など複数(1時間300円・1日最大1,800円が目安)
公式サイト 国宝犬山城 公式サイト

築城は信長の叔父・織田信康|戦国の城主が交代した時代

まずは成瀬家より前、戦国乱世の犬山城主たちを掘り下げます。この時代は城主が数年おきに入れ替わり、天下の情勢そのものが城の主を決めていました。派手な合戦の舞台にもなった、犬山城が最もドラマチックだった時期です。

天文6年、織田信康が木之下城を移して築いた

犬山城の始まりは天文6年(1537年)。織田信長の叔父・織田信康が、それまでの木之下城をこの地に移して築いたのが起源と伝わります。木曽川の断崖の上に立つ天然の要害で、川を天然の堀とする立地は、まさに戦国の城の教科書のような造りです。信康は天文16年(1547年)の美濃攻めで戦死したとされ、築城者としての在城はごく短いものでした。

この築城の由来を知っていると、天守がなぜ川ぎわの崖の上にあるのかが腑に落ちます。家族連れで訪ねるなら、天守の真下から木曽川を見上げる「城の裏側」もぜひ。断崖の高さに、子どもも大人も戦国の防御思想を肌で感じられます。ただし川べりは柵のない箇所もあるので、小さなお子さん連れは足元に注意してください。

📜 歴史メモ|城の名は「白帝城」とも

犬山城は、木曽川沿いの高台に建つ姿が中国の詩人・李白が詠んだ「白帝城」を思わせることから、江戸時代の儒学者・荻生徂徠によって「白帝城」の別名を与えられたと伝わります。現在も城を管理する財団の名が「白帝文庫」であるのは、この雅号に由来します。

池田恒興・織田信雄…信長一族が奪い合った要衝

信康のあと、犬山城には信長の重臣・池田恒興が入りました。恒興はのちに信長の乳兄弟として重用された人物で、犬山城主を経て各地を転戦します。信長の勢力下では、犬山は美濃攻めの前線基地として重要な役割を担いました。信長の死後は次男・織田信雄の勢力圏となり、その家臣が城を預かるなど、城主は織田一族とその重臣のあいだを行き来しています。

戦国武将の名前が好きな方には、この「城主リレー」をたどるだけでも十分な旅のテーマになります。木曽川を挟んだ岐阜側には信長の居城・岐阜城があり、犬山とセットで“信長ゆかりの城めぐり”を組むのも人気です。岐阜駅前に立つ黄金の信長像から巡り始めると、物語がつながって面白いですよ。

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小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉軍が入った城

犬山城が歴史の表舞台に最も大きく登場したのが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いです。羽柴(豊臣)秀吉と、徳川家康・織田信雄の連合軍が対峙したこの戦いで、秀吉方は犬山城を電撃的に攻略し、大軍の拠点としました。木曽川を押さえる犬山城が、いかに戦略上の急所だったかがよくわかる一幕です。

この合戦は結果的に大きな決着がつかないまま和睦へ向かいますが、犬山城は「天下人が奪い合った城」という誇るべき履歴を刻みました。歴史ドラマや戦国ゲームでこの戦いを知った方が、実際の地形に立って両軍の位置関係を想像するのは格別です。城下の観光案内所で合戦の解説資料をもらえることもあるので、立ち寄ってみてください。

なぜ成瀬正成が城主に?|家康の小姓から尾張藩付家老へ

戦国の混乱を経て、犬山城はついに成瀬家という安定した城主を迎えます。ではなぜ、数ある家臣の中から成瀬正成が選ばれたのか。その背景には、徳川家康と正成の深い信頼関係、そして「付家老」という徳川幕府ならではの仕組みがありました。

三河生まれの正成が家康に見出されるまで

初代城主・成瀬正成は、永禄10年(1567年)に三河国(現在の愛知県東部)で生まれました。幼いころから徳川家康に小姓として仕え、数々の合戦で武功を重ねて信頼を勝ち取っていきます。家康にとって正成は、若いころから手元で育てた腹心中の腹心。この長年の主従関係こそ、のちに大きな城を任される土台になりました。

戦国の立身出世物語が好きな方には、正成の経歴そのものが読み物です。名もなき小姓が天下人の側近へと駆け上がる過程は、努力と忠義が実を結ぶ痛快さがあります。犬山城の資料館では成瀬家ゆかりの品も展示されており、初代の人物像を知ってから見ると、一つひとつの品に物語が宿って見えてきます。

元和3年、秀忠から犬山城を拝領した理由

成瀬正成が犬山城主となったのは元和3年(1617年)。2代将軍・徳川秀忠から城を拝領しました。このとき正成に課された役割が、尾張徳川家(御三家筆頭)を補佐する「付家老」です。徳川家康は、自分の子である尾張藩主・徳川義直がまだ若かったため、信頼できる正成を目付役として尾張に付けたのです。犬山城はその拠点であり、正成は3万5000石の知行を得ました。

この「幕府から尾張徳川家に付けられた」という経緯が、成瀬家のその後を決定づけます。歴史散策の視点で言えば、犬山城は単独で存在したのではなく、尾張名古屋の巨大な藩体制の一部として機能していた、という理解が大切です。名古屋城とセットで訪ねると、御三家と付家老の関係が立体的に見えてきます。

「付家老」とは何者か|大名でも家臣でもない立場

成瀬家を語るうえで避けて通れないのが「付家老」という肩書きです。付家老とは、幕府が御三家などの有力大名に目付役として付けた重臣のこと。3万5000石という大名並みの領地を持ちながら、身分の上では尾張徳川家の家臣という、独立した大名でも単なる家臣でもない中間的な立場でした。この“ねじれた地位”は、幕末に成瀬家が独立を目指す大きな伏線になります。

💡 ぎふ旅メモ

御三家に付けられた付家老は全国で5家あり、「五家老」と呼ばれました。犬山の成瀬家はそのひとつ。3万5000石は大名なら立派な藩を構えられる石高ですが、正式な大名として認められないもどかしさが、幕末の各付家老家の独立運動へとつながっていきます。この“格”のねじれを知っておくと、幕末史がぐっと面白くなります。

成瀬家9代を一気に辿る|3万5000石の城主が残したもの

ここからは、犬山城の城主・成瀬家9代を通して見ていきましょう。250年という長い泰平の時代、城主たちは合戦ではなく城下町の整備や文化の保護に力を注ぎました。一覧で眺めると、それぞれの時代の空気が見えてきます。

初代正成〜三代正親|城下町と3万5000石の基盤づくり

成瀬家の礎を築いたのが、初代正成から三代正親までの時期です。初代正成(在任1617〜1625年)が城を拝領し、二代正虎が城下の体制を整え、三代正親(在任1659〜1703年)の代に知行高が3万5000石に定まり、城下町の基盤が完成しました。現在の犬山城下町に残る碁盤の目状の町割りは、この時代に整えられたものが下敷きになっています。

今の観光客が食べ歩きを楽しむ本町通りの町並みも、もとをたどればこの城主たちの都市計画の産物です。カップルでのんびり城下町散策を楽しむなら、「この道は300年以上前に設計された」という視点を一つ持つだけで、何気ない通りが歴史の舞台に変わります。串物やスイーツの店が並ぶ賑わいの裏に、城主たちの町づくりが息づいているのです。

四代正幸〜七代正寿|天守を守り続けた泰平の城主たち

四代正幸から七代正寿までは、大きな戦乱のない泰平の時代を治めた城主たちです。この間、成瀬家は木曽川の治水や新田開発、学問の奨励などに取り組み、地域経営を安定させました。天守も大きな改変を受けることなく維持され、江戸時代の姿を今に伝える現存天守として残る土台が築かれました。派手さはありませんが、「守り続けた」という功績は決して小さくありません。

歴史をじっくり味わいたい一人旅の方には、こうした“地味だが堅実な城主たち”の時代こそ心に残ります。天守の柱や梁に残る古材の質感、きしむ床板の音——それらは泰平の城主たちが手をかけて守ってきた時間そのものです。急な階段を一段ずつ登りながら、木の香りと歴史の重みを感じてみてください。

八代正住・九代正肥|幕末から犬山藩主へ

成瀬家の物語がふたたび動くのが、八代正住・九代正肥の幕末期です。とくに九代・成瀬正肥(在任1857〜1868年)は激動の時代の城主となり、慶応4年(1868年)に犬山藩の成立とともに、ついに正式な「藩主」となりました。250年間、付家老という立場に甘んじてきた成瀬家が、最後の最後で独立した大名として認められた瞬間です。

この9代の流れを、ぎふ旅手帖で一覧に整理しました。天守を訪ねる前に眺めておくと、展示の理解が段違いに深まります。

城主名 在任期間の目安
初代 成瀬正成 1617〜1625年
二代 成瀬正虎 1625〜1659年
三代 成瀬正親 1659〜1703年
四代 成瀬正幸 1703〜1732年
五代 成瀬正泰 1732〜1768年
六代 成瀬正典 1768〜1809年
七代 成瀬正寿 1809〜1838年
八代 成瀬正住 1838〜1857年
九代 成瀬正肥 1857〜1868年

※在任期間は犬山城白帝文庫の資料をもとにぎふ旅手帖が整理。

幕末から現代へ|城主・成瀬家が守り抜いた国宝天守

付家老として250年を過ごした成瀬家は、明治維新という大変動の中でどんな道をたどったのでしょうか。ここは犬山城が「個人所有の国宝」という特異な城になった経緯であり、この城の物語の最大のクライマックスでもあります。

慶応4年、成瀬正肥が「犬山藩主」として独立

慶応4年(1868年)、明治新政府のもとで成瀬家は尾張藩から独立し、九代・正肥が正式な犬山藩主となりました。長年「大名ではない城主」だった成瀬家が、ついに藩主として認められたのです。翌明治2年(1869年)の版籍奉還では正肥が犬山藩知事に任じられますが、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩そのものが消滅し、天守以外の建物の多くも取り壊されました。

数百年続いた城主の時代が終わる、まさに時代の節目です。歴史の大きなうねりを実感したい方には、この幕末〜明治の激動こそ胸に迫ります。犬山と同じく城の運命に翻弄された岐阜の史跡と合わせて巡ると、明治維新が地方の城にもたらした変化がより立体的に見えてきます。秀吉出世の城として知られる墨俣一夜城なども、あわせて訪ねてみてはいかがでしょう。

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濃尾地震で半壊した天守を城主が修復

廃城の危機を経た犬山城に、さらなる試練が襲います。明治24年(1891年)の濃尾地震で天守が半壊してしまったのです。このとき愛知県は、天守を修復して成瀬家に譲渡することを条件に、旧藩主の正肥へ天守を戻しました。正肥は私財を投じて天守を修復し、犬山城はふたたび成瀬家の手に戻ります。城主の責任感が、国宝天守を今日に伝えたと言っても過言ではありません。

濃尾地震は岐阜県側にも甚大な被害を与えた大災害で、震源に近い本巣・大垣一帯は特に大きく揺れました。犬山城の被災と修復の物語は、この地域全体の近代史とも深くつながっています。天守を見上げるとき、「一度は壊れ、城主が私財で建て直した建物」という背景を思うと、その存在感が一段と重く感じられます。

2004年まで続いた「個人所有の城主」白帝文庫へ

成瀬家に戻った犬山城は、その後も長く成瀬家個人の所有として守られ、「日本で唯一の個人所有の国宝城」として知られました。しかし維持管理の負担は大きく、2004年(平成16年)3月末をもって個人所有を終了。成瀬家の淳子氏が理事長を務める財団法人「犬山城白帝文庫」に所有が移り、現在はこの公益財団が城を管理・公開しています。城主・成瀬家の血脈が、形を変えて今も城を見守っているのです。

⚠️ 知っておきたい注意点

「個人所有の城」という表現は2004年3月までの話で、現在は公益財団法人が管理しています。ガイドブックや古い記事には今も「個人所有の国宝」と書かれていることがありますが、最新の運営体制は財団によるもの。訪問時の窓口や問い合わせは犬山城管理事務所(0568-61-1711)が対応しています。

城主の視点で歩く犬山城|望楼から見える景色と見どころ

歴史を頭に入れたら、いよいよ天守そのものの魅力です。歴代城主が守り抜いた建物は、日本に12しか残らない現存天守の一つ。城主になったつもりで最上階まで登れば、彼らが見ていたであろう景色に出会えます。

現存最古とも言われる望楼型天守の構造

犬山城の天守は「望楼型三重四階地下二階」という構造です。どっしりとした入母屋造りの上に望楼(物見やぐら)を載せた古い形式で、その古風さから「現存最古の木造天守」と紹介されることもあります。ただし築城年や改修の解釈には諸説あり、最古かどうかは研究者の間でも見解が分かれます。断定はできませんが、日本最古級の貴重な天守であることは間違いありません。

建築好きの方は、この望楼型の構造そのものが見どころです。地下二階の穴倉から最上階の望楼まで、時代ごとに手が加えられた痕跡が随所に残ります。急で狭い階段は往時のままで、手すりをしっかり握って登る必要があります。ヒールやサンダルでは危ないので、歩きやすい靴で訪ねるのが鉄則です。

天守最上階からの絶景|木曽川と濃尾平野

犬山城最大のハイライトが、最上階・望楼からの眺めです。高欄付きの廻縁(外を一周できる回廊)に出ると、眼下に木曽川、対岸には岐阜県側の各務原方面の平野が広がります。晴れた日には遠く岐阜や名古屋方面まで見渡せ、なぜ戦国武将がこの城を奪い合ったのかが一目でわかります。城主たちが日々眺めた景色に、自分も立てるのです。

この廻縁は柵の高さが低く、床も外に向かってわずかに傾いているため、高所が苦手な方はやや緊張するかもしれません。逆に絶景好きにはたまらないスポットで、風を受けながら川と平野を見渡す時間は格別です。カップルで訪ねるなら、この望楼からの眺めが旅のクライマックスになるはずです。

城下町とセットで巡る半日モデルコース

犬山城は天守だけでなく、城下町とセットで巡ってこそ真価を発揮します。名鉄犬山駅から本町通りの城下町を食べ歩きしながら北上し、天守を見学、木曽川べりまで下りて景色を楽しむ——このルートなら半日(3〜4時間)でたっぷり満喫できます。城下町には串グルメやスイーツの店が並び、歴史散策とグルメを両立できるのが犬山の強みです。

⚠️ 失敗パターン①|犬山祭当日に車で行き駐車場に入れなかった

毎年4月の第1土日に開催される犬山祭は、13輌の車山(やま)が城下町を練り歩く一大イベント。この日は城下町一帯が交通規制となり、周辺駐車場もほぼ満車で、車で乗り付けたものの停められず引き返した、という声を毎年耳にします。祭り当日に車で訪ねるなら、名鉄で犬山駅まで来て徒歩で向かうのが正解。ドライブ目当てなら、あえて祭りの時期を外すのが賢明です。

犬山城の城主めぐりを楽しむための実践ガイド

最後に、犬山城城主の歴史を存分に味わうための実践情報をまとめます。誰と行くかによって楽しみ方は変わりますし、2026年の料金改定や混雑対策も押さえておきたいところ。岐阜側からのアクセスも含めて具体的にお伝えします。

シーン別の楽しみ方|家族・カップル・一人旅・ドライブ

犬山城は誰と訪ねても楽しめますが、目的に応じた回り方があります。家族連れなら、天守探検+城下町の食べ歩き+近隣のテーマパークで1日コース。カップルには、城下町散策から望楼の絶景、夕暮れの木曽川という王道デート。一人旅なら、成瀬家9代の資料をじっくり読み込む歴史深掘りの時間を。ドライブ旅では、岐阜方面の史跡と組み合わせた“戦国城めぐり”がおすすめです。

岐阜側から来るなら、木曽川を挟んで対岸の各務原エリアと組み合わせるのが効率的です。航空博物館や水族館など見どころが多く、犬山城とあわせて濃尾の一日旅が完成します。

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2026年3月の料金改定と混雑を避けるコツ

2026年3月1日から、犬山城の入場料が改定されました。大人は550円から1,000円へ、小中学生は110円から200円へと、約11年ぶりの値上げです。国宝天守の修繕費や防災対策の財源確保が理由とされています。幼児は引き続き無料。城下町の散策自体は無料なので、天守に登るかどうかで予算を考えるとよいでしょう。

改定前(〜2026年2月) 改定後(2026年3月〜)
大人 550円
小中学生 110円
幼児 無料
大人 1,000円
小中学生 200円
幼児 無料

混雑を避けるなら、開城直後の朝9時台か、夕方の入場締切間際(16時前後)が狙い目です。土日祝や桜シーズン、犬山祭の時期は天守入場に待機列ができ、入場制限がかかることもあります。ゆっくり見学したいなら平日の午前中がベストです。

⚠️ 失敗パターン②|16時30分の入場締切に間に合わなかった

開城は17時までですが、天守への入場は16時30分で締め切られます。「17時まで開いているから」と17時前に着いてしまい、天守に登れず城下町だけ見て帰ることになった、という失敗は珍しくありません。城下町の食べ歩きを先に楽しむ予定でも、まず天守見学を済ませてから散策する順番がおすすめです。夕方到着になりそうな日は特に注意してください。

岐阜側からのアクセスと駐車場の選び方

飛騨や岐阜市方面から車で向かう場合、中央道・小牧東ICから約25分が目安です。木曽川を渡ればすぐ犬山という近さで、東海環状道や名神を使えば岐阜県内各地からアクセスしやすい立地です。電車なら名鉄犬山駅・犬山遊園駅から徒歩15〜20分。名古屋方面からは名鉄特急で約30分と、公共交通でも訪ねやすいのが魅力です。

駐車場は城周辺に複数あり、1時間300円・1日最大1,800円程度が目安。土日祝は城に近い駐車場から埋まるため、少し離れた城下町の市営駐車場に停めて、町並みを散策しながら城へ向かうのが賢い使い方です。最新の料金や満空状況は犬山観光ナビで確認できます。

Q. 犬山城は岐阜県の城ですか?
A. 犬山城の所在地は愛知県犬山市です。ただし木曽川を挟んですぐ北は岐阜県各務原市で、岐阜側の対岸から天守を眺めることもできます。歴史的にも尾張と美濃の境目を守る城だったため、岐阜からの旅にも組み込みやすい“県境の名城”です。

まとめ|犬山城の城主・成瀬家が語りかけるもの

犬山城の城主をたどると、戦国の混乱から江戸の泰平、幕末の激動、そして現代までの日本史がぎゅっと凝縮されていることがわかります。信長の叔父・織田信康が築き、池田恒興ら戦国武将が奪い合い、天下人・秀吉が拠点とした城。そこへ徳川家康の腹心・成瀬正成が入り、以後9代・約250年にわたって成瀬家が守り続けました。付家老という特殊な立場から幕末にようやく藩主となり、濃尾地震で半壊した天守を私財で修復し、2004年まで個人所有の国宝城として受け継いだ——その一貫した「守る」姿勢こそ、成瀬家の城主たちが残した最大の遺産です。

歴史を知ってから天守に登れば、望楼から見る木曽川と濃尾平野の景色が、ただの絶景ではなく城主たちが見つめ続けた風景として胸に迫ります。岐阜側からもアクセスしやすい犬山城は、戦国・城好きにとって外せない一城です。

📝 この記事のポイントまとめ

  • 犬山城の始まりは1537年、信長の叔父・織田信康の築城
  • 戦国期は池田恒興ら武将が城主を交代、秀吉軍も拠点とした要衝
  • 1617年に成瀬正成が拝領し、以後9代・約250年の成瀬家の城に
  • 成瀬家は尾張徳川家の付家老(3万5000石)という特殊な立場
  • 幕末に犬山藩主となり、濃尾地震後は天守を私財で修復
  • 2004年まで個人所有の国宝城、現在は犬山城白帝文庫が管理
  • 入場料は2026年3月改定で大人1,000円、天守入場は16時30分締切

まずは名鉄犬山駅から城下町を歩き、成瀬家9代が守った天守を目指してみてください。最上階の望楼に立ったとき、この記事で知った歴史が景色と重なり、犬山城がぐっと身近な“物語のある城”に変わるはずです。

※本記事の料金・時間などは2026年7月時点の情報です。最新情報は国宝犬山城公式サイトでご確認ください。

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この記事を書いた人

飛騨高山・白川郷・下呂温泉を中心に、岐阜県の観光スポット・グルメ・温泉情報を発信しています。地元の人に教えてもらった穴場や、季節ごとのおすすめルートなど、旅行計画に役立つリアルな情報をお届けします。

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